1976 April

レンサ  




 その夜、個人的な学習に使用する薬草を手に入れようと温室へ向かっていた。
 道中、暗闇の中でガサガサと脚にまとわりつく物があった。拾い上げてみれば校内新聞の号外で「グリフィンドール奇跡の逆転勝利! チェイサーが大活躍!」と巨大な見出しが点滅していた。
 それは4日前に発行されたもので、すでにゴミとしてそこらじゅうに巻き散らかされていた。紙面の中では高慢ちきな顔が「勝利の秘訣は女神のキスが」どうのこうのと傍らの赤毛の女生徒の腰に腕を回しながら講釈を垂れて、実演もしてくださっている。
 これはクィディッチの試合終了間際のインタビューで、全校生徒の前で行われた醜態である。恥知らずめ。
 さらに腹立たしき事は、女生徒の頬が赤く嬉しそうな笑顔に染まっている事だった。
 たぶん、俺の思考はそこで停止していた。
 4日まえの忌々しい出来事を不意に反芻させられ、苛立ち紛れに新聞をまるめて捨てる。ゴミは夜の闇に紛れ見えなくなった。
 ちなみに、なぜこのような深夜に活動しているのかというと、採取の許可を求めれば却下される種類の植物を求めているからだ。

 しかし、こっそりと忍び込んだ温室の中には先客がいた。レポートを手に羽ペンを走らせている女生徒、スリザリン7年生の有名人である、フローレンスだ。肉感のある美人で、ホグワーツを駆け巡る下世話な噂の終着点は彼女である事が多かった。そういう類の噂に興味のない者にまで話が回ってくるのだから相当な活発さなのだろう。
「こんばんわ。たしか……セブルスっていったかしら?」
 無言で頷く。そして彼女のしゃがみ込んでいる隣の畝へ移動し、懐から小刀を取り出す。目当てのサボテンに傷を付けて果汁を小ビンへ滴らせた。フローレンスはそれを興味深げに眺めているようだった。
 視線を訝しく思い、顔を上げるといつの間にか目の前にはフローレンスの顔があった。
「あなた、優等生よね。魔法薬学は得意でしょ?」
「……さあ。自称はしかねる」
 謙遜ではない。まさしくそう思っていた。しかしフローレンスはそうは思わなかったようで、顎を引き上目遣いでこちらの目を覗き込む。眼球がデカすぎて零れ落ちそうだ。しかし、世間の評価に準ずれば魅力的に見えない事もない。
「何が目的だ?」
 尋ねれば、フローレンスは目を細めて笑う。しかしそのもう少し下の方が気になった。赤く濡れた唇は両端がかすかに上がっている。彼女は口元を見られている事に気が付いたようで、さらに笑みを深めた。彼女の手元で羊皮紙がかさりとなる音がした。
 フローレンスの顔がさらに近寄る。こちらが顔を傾けると、その小鹿のような目が閉じられ、唇が重なった。たかがキスだ。誰でもしている。さして特別視するようなものではない。
 フローレンスは唇をすぼめ、薄く開けて、舌を出した。未知の怪物のように口内でうねっている。その後、さらなる技術を発揮した後、彼女はゆっくりと距離を開けた。
「もっと、違う場所へ行きたい……?」
「……いや、差し当たっての興味はこれだけだ」
「あ、そう」
 フローレンスは意味深に笑うと、手にしていた薬草学のレポートを押しつけて去っていった。彼女もまたスリザリン的な女生徒だ。模範的な優等生とは言えないまでも。

 そして更に2、3の窃盗を働き温室を後にした。予定外の課題を請け負ってしまったが仕方がない。城の管理人に見つからないようにこっそりと寮へ戻り、ベッドの中で記憶を反芻し、眠った。
 なんて事はない一日だ。しかし翌日、さっそく後悔することになる。








 朝食時の大広間でバーサ・ジョーキンズが騒いでいた。
「フローレンスがスリザリンの生徒と温室でキスしてた!」
 彼女が思い人をフローレンスに奪われたというのは3日前のニュースだった。その時も、バーサは夕食の席で涙を盛大に流しながら喚いていた。彼女はそういう種類の有名人だった。
 バーサの周囲の女生徒は彼女をはやし立て、スリザリンの生徒の名前を聞き出そうとしている。しかしバーサは含み笑いをするだけで肝心な所を言わない。
 足早に大広間を後にしたが、バーサの視線が追いかけてくるような気がした。





 夕方、人気のない廊下を急いでいると呼びとめられた。振りかえると睨まれた。
「セブルス、あなた今日バーサ・ジョーキンズを攻撃したらしいわね?」
 は何が気に入らないのか不機嫌な様子で言った。
「ああ、呪ったな。それが何か?」
「理由も聞いたの。……フローレンスと……その」
「キスした。そしたらあいつが騒いだ。鬱陶しかったんだ。お前には関係ないだろう」
「フローレンスとつきあってるの?」
「いいや、違う」
「じゃあ、なんでキスしたの?」
「……なぜお前が気にする?」
 は黙り込んだ。しかしこちらをじっと見ていて気分が悪い事この上ない。面倒さを感じて首を回すが、それでも彼女は黙ったままだった。事態の進展は無いと判断し、驥尾を返し去ろうとすると、背後からローブを掴まれる。
「なんだ」
 はさらにローブを引いたので向かい合うような体勢になる。彼女は手を放したがすぐにローブの首元を掴み直し引き寄せた。の意図を感じ、逆らわずに身を任せ上体を折る。
 は目を閉じなかった。こっちも閉じなかった。距離が近すぎてぼやけていたが彼女の目の涙が溜まっているのは解った。泣くくらいならしなければいいと言いかけたがやめておいた。口もふさがっていたし。
 が一瞬身を引いて息を吸った。その頭を掌で抑え込み、舌を差し入れる。彼女の唇から吐息が漏れ、ローブを握る手に力が入ったのが感覚で解った。
 を解放すると、泣くかと思ったがそれほどでもなかった。彼女の腕がローブから離れゆっくりと下ろされる。は顔を上げ、まだこちらを見ていた。
「好き」
 端的に、こちらをまっすぐに見て言った。こちらの都合もお構いなしに容赦なく感情を見せるに腹が立ち、勝手に表情が険しくなる。
「俺は別に、お前の事は好きじゃない」
「知ってる」
「それならば……」
 なぜか、と問いかけようとも思ったが、からの返答はとくに求めていなかったので口をつぐんだ。聞く必要もない。しかし、彼女の方から口を開いた。
「少なくとも、あなたがフローレンスにしたのとは違う理由だわ」
「……だろうな」
 は肩をすくめる。そして何かを言いかけたようだが、廊下の奥の方から足音に気付いたのかびくりと肩を震わせたのでどこか残酷な気持ちになった。
 そんなおのれに苦笑しての腕を取る。
「……嫌になったら言え」
 はためらいながらも頷いた。彼女が何を予感しているかは知らないがどうでもいい。強制ではないという事を伝える義務は果たした。は腕を振りほどかないだろうと核心があった。率直に物事を投げつけてくる彼女を打ちのめしたかったのかもしれない。
 廊下はいつ他者が通るか解らない。しかし、幸いな事にこの城は一時の隠れ家ならば無数にあるのだ。

 もちろん発散の方法は知らぬわけではなかったし、深夜に一人きりになれる場所を探す事もたやすい事だった。しかし、大部分の生徒が知っている事を自分だけ知らないというのは、あまり気分のいいものではなかった。
 どうせ原始から繰り返されて来た行為だ。あとは本能でどうにでもなるだろう。




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2010/7/8