1976 April
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「セブルス、オペラに連れて行ってあげよう」
いつだったか、ルシウスマルフォイがそんな事を言った事があった。彼は何かとこちらの世話を焼きたがり、たしかその時は「感受性の乏しい君の人生が少しでも豊かになるように手助けをしてあげよう」とか何とか。余計な御世話だ。
幸いな事に音階の波に感動する感性は持ち合わせていたのでそれなりに楽しむ事はできた。
しかし、不思議な事に歌手達は愛を歌うとき、必ずと言っていいほど眉間にシワを寄せていた。
苦悩と苦しみに近い表情のソプラノ歌手がテノール歌手の抱擁を受ける場面を、同じく眉間にシワを寄せて見ているとルシウスはこちらをみて笑った。
ちなみにルシウスは在学中に目に眼に入った女子生徒から男性職員まで手当たり次第に手を付けていった。
しかしどうにも彼の趣味はよくわからない。と言うよりは、わかってたまるか。
たるんだ顎の皮膚から生える髭が良いんだとか、肉の薄く付いたあばら骨と張った腹部が良いんだとか。彼の琴線は何本もある上に、使い古しの歯ブラシのごとく乱雑に生えているんだろう。
そのおそましい武勇伝をこちらに聞かせようとするので始末におえない。彼のせいで、そういう事に関するロマンや希望をかなり失った。
そんな彼はホグワーツを荒らすだけ荒らして、卒業するなり婚約者とさっさと結婚した。妻のナルシッサは学校に通わずに自宅学習で学んだ純粋培養の箱入りお嬢様だ。
「寮住まいのあばずれなんて死んでも無理だね」とは彼の談だ。自分を棚に上げて、と言ったら「汚物にまみれながらも清廉さを無くさない人を夢想しているが、そんなのは自分以外に居るはずはない。それに、ナルシッサの肌に一度でもほかの奴が触れた事があるかもしれないと想像するだけで嫉妬に狂う」と言われた。
まったく、変態の考える事は解らない。
そのオペラ鑑賞以降、人生が豊かになったかどうだかはわからない。
しかし、まわりは勝手にそういう方向に騒がしくなった。学年が上るにつれ、周囲は惚れたの腫れたの誰と誰がどうしたと囁き合い、盗み見あっていた。
学園内をめぐる噂がそんな内容ばかりで辟易する。もっとも、噂とはどのような種類でも“噂”というだけで低俗な事に変わりはないが。ほかにもっと有益な事をすればいい。尾ヒレとか背ビレとかを付けるよりももっと別の物を身につけるべきだ。
それに、そういう物事は口に出して言い広めるものではないだろう。
地下の談話室へ足を踏み入れると、部屋の中にいた全員の視線がこちらに集まった。何事かと思いぎょっとする。大多数は下卑た笑みを向け、その他は忌々しげな顔、同情するように笑う者、さまざまだった。
居心地の悪さを感じながら部屋の中ほどまで進むと、暖炉の前に二人の女生徒が見合っていた。はっけよいのこった。見合って見合って。と他人事ならば言えるが無理なようだ。
少し離れたところに立ち止まる。まだ二人はこちらに気づいていないようだ。
もちろん、見覚えのある彼女らである。フローレンスと。どう見てもの方が(フローレンスより6学年下だという事で大目に見ても)見劣っていて少し同情する。
得てして、大衆は美的に好みな者の見方をするものなのだ。つまり、にとっては1対多数のようになっている。
騒動の輪の少し外顔で、黒髪の青年が我関せずと言った感じで本を開いていた。目を向けるとレギュラス・ブラックだった。彼は不出来な兄を持つ可哀そうな奴であるが、本人には罪は無いのでそれなりに仲良くしている。
「何の騒ぎだ?」
彼に近寄り小声で尋ねると、レギュラスはにやりと笑った。
「セブルス。フローレンスはあなたが欲求を満たしてくれなかったからご不満らしい」
「というと?」
「えーと、つまり。“セブルスは腰ぬけ。キスだけで怖気づいた”っていうのが彼女の談。それって本当?」
レギュラスは気持ち悪く声真似をしながら笑った。俺が眉間に盛大にシワを寄せると、わざとらしく真面目な表情を作る。しかし口元にはにやにや笑いの痕跡が残っていた。
彼は肩をすくめ、視線を本に戻す。しかし、聞き耳は立てているに違いない。ため息をついて二人に向き直ろうとすると、フローレンスが喚いた。
「なによ、なにか文句でもあるわけ?」
フローレンスは美しい唇をゆがめ、顎を少し上げ加減に言った。も負けずに彼女を睨め返す。
「べつに? ただ、手に入らなかったものを貶めて自分の価値を持ち上げようとするなんて、品性に欠ける行為だと思うわ……って言ってもいいんだけど。言っても無駄そうだからやめておこうと思って」
うー。と、面白がるような声が周囲から上がる。傍から見ていれば楽しいだろうが、そんな余裕を感じる事は出来なかった。観衆の視線はこちらにも注いでいる。思い当たる節があるので居た堪れない事この上ない。フローレンスはさっと顔を赤くするが、それを隠すように高い笑い声をあげた。
「だって、本当よ。きっと彼はキスだけで精一杯って感じだったもの」
「あなたが相手だったからじゃない? だって……」
が余計な事を言わないうちに口をふさいだ。背後にまわり元掌で口を覆うと肩を抱くような形になってしまって不本意だが仕方がない。はもごもごと何かを言っているが聞こえてはこない。
渦中の自分物の登場に周囲はさらに沸いた。鬱陶しくてしょうがないが、無視して放っておけばさらにある事ない事を言いふらされそうで苦渋の選択だ。
「迷った時は、どちらも選ばず何もせずにいろ。黙っておけ。お前の選択はつねに間違っている」
ため息混じりに言うとはもごもごと掌の内で言い、肩をすくめた。そしてその様子を不可解そうに見ているフローレンスに視線を向ける。
「自負を守るために自身の記憶を捏造するのは構わない。自己防衛なんだろ? ただ、それを言いふらすならせめて事実を知る者の前では避けてくれないか。気分が悪い」
そう言うと、フローレンスは赤い唇をすぼめまだ余裕のある表情をしている。そこで思いついて、手荷物から羊皮紙の束を取り出した。そしてそれを彼女へ突き出した。
「そうだ。忘れていた。君が書いた前半部分も直して置いた。間違った答えも、誤字も。それでよく7年生になれたな」
フローレンスの顔がさっと赤くなる。
羊皮紙をひったくるように受け取り、驥尾を返して談話室を去った。そして、彼女の友達らしき女生徒が勢いよく立ちあがり、「最低!」と吐き捨てるように言って後を追った。まさに、“立つ鳥あとを濁さず”と言うやつだ。これは皮肉だが。
周囲の生徒はと言うと、それぞれに囁き合いあらたな噂を製造している。うんざりとした顔でため息をつくと、腕が勝手にぶるぶると震えた。
が乱暴に首を振っている。そういえばこいつの口を塞いでいたのを忘れてた。
これを言いくるめなければいけないのかと思うと気が滅入った。
一時の気の迷いで手を付けてしまった目前の据え膳……と言ったら下品すぎるか。まったく、これでは周りの奴らと同等だ。
仕方なく、の口を掌でふさいだまま力を込めて引き寄せる。そのまま談話室を横断し部屋から出た。当然のごとくしつこい視線が追いかけて来たが、実際について来る奴はいない。彼らは腐ってもスリザリンだ。もっと陰湿な方法で情報を収集するだろう。
5学年下の女生徒に手を出したロリコンという風評が立たなければいいと願ったが、当たらずも遠からずなのであとは野となれ山となれだ。くそ。やっぱりこいつなんか無視してればよかった。
暗い廊下を進む。
人気のない方へと行ったので幸い誰とも会わなかった。
は抵抗を諦めておとなしくついてくるが、相変わらずもごもご何かを言おうとするので掌が気持ち悪くくすぐったい。
無意味に配置された角を曲がり、ようやく立ち止まる。
を解放すれば不機嫌な眼で睨まれた。
「苦しかった」
「悪かったな」
肩をすくめると、は何かを言いたげにこちらを見ていた。と、言うよりは、こちらの出方を待っているような雰囲気で、居心地の悪さを感じる。結局、焦れて先に口を開いたのはの方だった。
「さっきの、……」
「勘違いするなよ。お前だからじゃない、誰でもよかったんだ」
どうせ聞きたくないような事をいんだろうと思って遮ると、挫かれたは口を結び言葉を飲み込んだ。もっと傷ついた顔を見せるかと期待したがそれほどでもなく少し落胆した。
「……それでもいいわ。あなたが私を利用するなら……私もあなたを、好きなように解釈するから」
「勝手にしろ」
の視線から逃れるようにそっぽを向き、短く答える。しかし、この場を去る気にはなれない。
ルシウスはよく言っていた。相手は見極めろと。自分の為になる行いだけ選択していきなさい、と。
別にを選んだわけではない。勝手につっかかってきたのでやり過ごそうとしているだけだ。
それならば、突き放して見向きもしない方がお互いの為だろうとは思う。
こいつを傷つけたいんだろうか。しかし、を傷つけてなんの優越感を感じる事が出来るというのだろう。
がこっちを見上げるように、顔をかすかに傾けた。
もう何も考える事が出来ない。結局は俺も駄目な奴だ。
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2010/7/31