1976 April
3
は城へと急いでいた。
日が落ち切りすっかり暗くなり、とっくに夕食の時間は過ぎている。
延ばし延ばしにサボっていた薬草学の宿題を済ましてしまおうと出かけたのだが、思いのほか時間がかかってしまった。
まず自生しているヘレボルス・オリエンタリスを探し、精密なスケッチを描かなければいけないという課題は夕食前に終わらせるには少々の難があったが、明日までにはどうしても終わらせておきたかった。
明日は休日で、ホグズミートに出かけてもいい日だった。
満月に近い月が夕食へと急ぐの横顔を照らしていた。
「……っ!! なに!?」
突然その横を、大きな黒い塊が跳ねた。
の背後に回った動物がまた真横に飛びかかろうとしていた。地面を爪のある足が蹴る音が聞こえ、は身構える。とっさに身体を両腕で庇うと羊皮紙の束と羽ペンが地面にばさばさと落ちた。
「きゃ! ちょっと! え!?」
しかし強い力に引っ張られ身体がぐらつく。驚きながらも懐から杖を出して構えると、大きな黒い犬がローブの端を噛んでいた。飼われている犬なのか、首には銀色の鎖が光っている。
「う……うわ!」
そのまま強く引っ張られローブを奪われる。
犬はローブを咥えたまま前方へ駆けて行き、少し離れたところで止まって振り返る。が追って走り出そうとすると大きく吠えて制した。鼻先で落ちた羊皮紙やらを示し、拾えと仕草で伝える。
そして吠えたせいで落としてしまったのローブを再度咥え上げて尾を振った。
その振る舞いに人間臭さを感じては怪訝な表情をする。
なかなかが動き出さない事にしびれを切らしたのか、犬はまた吠えて、また落ちたローブを拾った。
が苦笑して羊皮紙を拾い、肩をすくめて見せる。
すると犬はローブを引きずってどこかへと行こうとする。があわてて後を追うと、犬は満足そうに鼻先を上げて彼女の先導して歩いた。
どれくらい歩いただろうか。
城の裏手の、すでに役目を終えた城壁の残骸が散らばるあたりで犬は歩みを止めて腰くらいの高さにまで崩れてしまった煉瓦の壁に登った。
が立ち止り眉をひそめて見守ると、犬は彼女のローブをかぶり壁の裏側に飛び降りる。
その次に目に入った光景に、は目を向いた。
「いいか、襲われたらまず杖を出せ。あれじゃ遅い。すぐにやられるぞ?」
壁の裏側からひょっこりと姿を現したのはシリウスブラックだった。笑みを浮かべ、の驚く様子を見て楽しんでいるようだ。
が壁の裏側に回り込んで犬を探す。しかし周囲を見回しても影も形も見つけられず、シリウスを睨む。
「あれはあなたのペット? 手品か何か?」
「ああ、そんなようなもんだ。ラスベガスのショーガールから習ったんだ。驚いたか?」
シリウスはにやにやと笑ったままはぐらかす。がシリウスの頭から足先まで注意深く見ると、彼は体格に合わない短すぎるローブを着込んでいて、裾からはむき出しの脛が盛大にはみ出していた。
「それ、私のローブよね?」
「おっと、あんまり見るなよ? 手品のタネが隠れてるからな」
が怪訝な顔をすると、シリウスはローブをかき寄せて腕を組んだ。
「聞いたぜ、お前。フローレンスとやり合ったんだって?」
「……それを言う為に、私のローブを泥だらけにしたの?」
シリウスは鼻で笑い、城壁の残骸に腰をかける。
「まあな。……最近、おまえ機嫌が悪そうで声かけられなかったし。スリザリンの連中に囲まれてると気分がささくれるんだろ? たまには俺みたいな善良な生徒との歓談で気分を和ませろよ」
「また、そんなこと言って!」
が呆れたように笑うと、シリウスも喉の奥で笑った。
シリウス首に掛けている鎖にくくりつけられた杖を掴むと、慣れた仕草で屋敷妖精を呼びつけて夕食の用意を命じた。パチンと音を立てて屋敷妖精が姿を消すと、すぐにテーブルごと食事が出現した。
それぞれの温かな皿は湯気を立て、冷えた皿はうっすらと結露を始めていた。急誂えにしてはなかなかのディナーだ。
はシリウスの横に腰掛けスープ皿に手を伸ばす。シリウスもパンに適当に肉を挟み齧りついた。
屋敷妖精は的確なタイミングでデザートに紅茶までテーブル上に出現させた。
はラズベリームースの最後の一口を飲み込み、シリウスは紅茶をすすった。
食事の間に話題はとうに尽きていたが、不思議と気づまりな雰囲気では無く、二人でぼんやりと月を見上げていた。
そして、不意にが口を開いた。
「ねえ、シリウス」
「ん?」
「キスしてくれないかしら」
「……はあ?」シリウスは眼を見開いてぽかんと口をあけた。そして大げさに眉間にしわを寄せ、を見つめる。「なんだ、おまえ、やっぱり俺の事が好きだったのか?」
「あー、うん。うん、そう。好き。だからキスして」
「嘘だろ、スリザリンめ」
が頷いて肯定するとシリウスは顔をしかめた。は落胆した様子で肩をすくめるが、どちらかといえば、あっさり否定された事に対しての不満な表情をにじませていた。
「私は基準に達してないの?」
「どういう意味だよ」
シリウスが怪訝な顔をしての顔を見れば、彼女は探るように眼を細めて彼を覗き見た。シリウスは顎を引き訝しげな表情のままでの言葉を待つ。とくに焦らしもせずは抑揚なく言った。
「あなたがいろんな子とキスしてるって知ってるのよ」
「嫉妬か」
「違うけど、知りたいの。好きじゃない人とキスしたい時ってどんな気分の時?」
「……おまえ、それは……かなり失礼な事言ったって気付いてるか?」
「え?」
全くその気は無かったのか、は不思議そうな顔をする。シリウスは眉をひそめるが、結局は笑うようにため息をつき、穏やかに言った。
「俺は、俺が好きな子か、俺の事を好きな子としかキスしない」
「でも、私の事は嫌いじゃないでしょ?」
「“嫌いじゃない”と“好き”は違うだろ」
「意外と潔癖なのね。奔放なのに」
「まあな。その辺も俺の魅力なんだ」
シリウスはにやりと笑った。は呆れながらもぎゅっと唇だけで微笑んで答えるが、納得は出来ず、不満そうにシリウスの顔を見る。彼はしかたなく言葉を選んだ。
「……お前はなんで俺としたがったんだ。それがおまえの知りたい事とは違うか?」
「ああ……、えー? でも、ちょっと違うと思う……」
は大まじめに自身の脳裏を探る様に黙り込んだ。その様子を見てシリウスは苦笑する。
「本当に、失礼な奴だな。怒るぞ?」
「怒らないから、私が図に乗るのよ」
「図に乗ってるって言うか……あ、そうかおまえ、甘えてんだろ」
「甘える?」
は軽い冗談をかわしていたつもりのところに不可思議な事を言われ、盛大に顔をしかめる。その顔をみてシリウスが思わず噴き出すように笑うと、彼女の表情はさらに不愉快さを隠さなくなった。
「まあ、俺は上級生だし? 下級生の面倒くらい見てやるからいいけどよ。おまえ、俺なら構ってくれるって知ってるから無理言ってつっかかってくるんだろ」
はこれ見よがしに眉間にしわを寄せる。シリウスは忍び笑い、にやにやと続ける。「したければしろよ」
そう言ってぐっと顔を近づけた。間近にある顔に怯んだは身を引いて視線を落とした。
「私も、好きな人とじゃなきゃできない」
呟くように言うに、しかしシリウスは更に顔を傾け唇を触れさせる。は身を強張らせて眼を見開いた。シリウスは一度だけついばむように音を立てて唇を離す。
「へっ。してやったぜ。ざまーみろ」
シリウスは勝ち誇ったように笑うが、を見てすぐに気まずそうな顔をする。はぼんやりとシリウスの顔を見ているが、頭の中では別の事を考えているのがあからさまに見てとれた。
「いや……なんつーか、そんなつもりじゃ……。あ。おまえ明日ホグズミート行くだろ?」
「……え? うん」
がシリウスの意図をつかめずに間抜けな声を出すと、彼は肩をすくめる。
「一緒に回ろうぜ。デートだ」
「はぁ?」
「俺が不本意だ。キスっつーのはもっとこう、違うもんなんだよ。俺にとっては」シリウスは不敵に笑うと、有無を言わさぬ口調で言いきった。「だから、俺の唇を穢した責任を取れ」
「……私を汚れもの扱いしたわね?」
は絶句してシリウスを見ていたが、やがて片眉を上げて言った。シリウスも口を横に広げて笑う。
「俺のがあんなもんだと思われてもなんだからな。最初から最後まで相手してやる」
「あ、そう。……楽しみにしてるわ」
「俺も楽しみにしてるぜ。じゃあ、また明日な」
が冷ややかに言うと、シリウスはにやりと笑ってテーブルを杖で軽く叩いた。
するとテーブルは煙を上げて派手に燃え上がり辺りを白く染める。
「っうわ……! シリウス!?」
は動転して腕を振るが煙はさらに濃くなるだけで消えなはしない。
やがて煙が薄まるころには、テーブルセットもシリウスの姿も忽然と消えていた。……土に汚れたのローブを残して。
はローブを拾い上げ、杖先に光を灯し辺りを見回すが、当然ながらシリウスの姿はすでに無く、あきらめて杖を下ろした。
課題を拾い集めて城へと歩き出す。汚れたローブを羽織る気になれず脇に抱えた。
相変わらず月は大きく輝いていて、気持ちのいい春の夜だったが、煙の残滓が空気を汚している。
「怒るって言うか、感心するわ」
は呟くように言って、小さく笑いをもらした。
たぶん、談話室では夕食に現れなかった理由を詮索されるだろう。
フローレンスの件からどうにも注目されて息苦しさを感じていた。同時に脚光を浴びているスネイプは無視を決め込んでいる。
今夜の事は正直に言っても言わなくても、明日になればみんなの目に触れるのだろうから黙っておこうと心に決めた。
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2010/8/6