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red data animals

mid rain




 騎士団のミーティングの後、なし崩し的に始まってしまった宴会は、いつもの通り議題の深刻さとは反比例の賑やかさで終わった。
 雰囲気に呑まれ、そのまま滞在しつづけてしまったアゲハは真夜中に目を覚ました。不思議に冴えてしまった頭をもてあましてベッドの上で伸びをすると、どこからか水の音がする。
 窓の外には明るく月が輝き、雨の気配は無い。

 原因不明の不可解な水音を辿ったアゲハが厨房に入ると、シンクの蛇口にはホースのような物が差し込まれていて、どこかへ水を運んでいるようだった。そのホースは厨房を抜け、廊下を通り階段まで上っている。
 アゲハは眉間にかすかな皺を寄せ、ホースを辿って廊下を歩き階段を上り、ある部屋の前へたどり着いた。
 予想通りというか、期待を裏切らないというか。
 その部屋はシリウスが使っている寝室で、ホースを部屋に引き込んでいるせいで扉が薄く開いたままになっている。
 
 
「シリウス?」
 アゲハが訝しげな表情で扉を開けると、部屋の中は目を疑いたくなるほど場違い甚だしい状況だった。
 部屋の中央にはネコ脚のバスタブが置かれ、貯められた湯は白い湯気を立てている。厨房からか引かれたホースは天井からぶら下げられ絶え間ない雨のように湯を降らしていた。バスタブの水面をシャワーの粒が叩く音が部屋に響いている。
 その中に浸かっている男は扉に背をむけるように座っていて、バスタブの淵に肩を預けてもたれていた。

「ああ、その声はアゲハか?」
 雨ような湯を止ませ、首だけでシリウスは振り返る。振り返った頬には湯の粒と濡れた髪の毛が張り付いていた。
「なんだ、夜這いに来たのか?」
「まさか! 私ならきちんと昼間にお伺いを立てるわ」
「返り討ちにしてやろうと思ったんだがな」
 シリウスはニヤリと笑うと、バスタブの傍らに置かれたチェストの上から瓶を取り、中身を浴槽の中に流し込んだ。
「濁り湯にしたから、入ってきてもいいぞ」
「意外と繊細なのね」
「俺の魅惑を目にしたら、お前が冷静でいられなくなるかと配慮してやったんだ」
 アゲハはくすくす笑うと、戸口から部屋の中央へ足を踏み出した。すっかり毛の潰れきった絨毯は水気を含み、不快な厚みを増している。一歩踏みしめるたびに染み出た水が靴を濡らした。
「あーあ、こんなに濡らして」
「モリーに怒られるか?」
 アゲハはバスタブの淵に腰掛け、水面を指で撫でた。乳白色に濁った湯は、甘い匂いを湯気と一緒に部屋中に満たしている。
「さあ。……でもしっかり隠滅しておいたほうがいいと思うわ」
「そうだな」とシリウスは呟いて、顎まで身体を水面に沈めた。
「今日は月がきれいだ」
 シリウスの言葉に、アゲハは窓を見つめて感嘆の息をもらした。古びてホコリを浴びた窓ガラス越しにも丸い月が明るいほど光って見えていた。
「月を写した水面に浸かると、肌がきれいになるんだとさ」
「どこでそんな事を?」
「ジニーが置いてった雑誌に書いてあった」
 アゲハは思わず吹き出して笑い、そのままバランスを崩してバスタブへ滑り込む。派手な水音を立てて侵入したアゲハに、シリウスは陽気な笑い声を上げるが、それをすぐに押さえて紳士的な声音を作る。
「ようこそ、お嬢さん」
「……お邪魔するわ」
 ばつが悪そうに低い声で言うと、アゲハは膝を抱えるようにバスタブの中に座りなおした。滑ってバランスを崩すたびに、シリウスの腕が伸びて体勢を支える。湯を吸って重く肌に張り付いている彼女の衣服を見て、シリウスは笑いを漏らす。
 アゲハは水面を叩いてシリウスの顔を濡らす。跳ねた水滴が彼女の服にかかり染みを作った。
「脱がないのか?」
「貴婦人ですもの、むやみに肌は出さないわ」
 アゲハの頬に掛かった濡れた髪を、シリウスは耳の後に流すように触れた。
「そんな事しても、指がふやけてるからかっこ悪いわ、あなた」
「爪も柔らかくなってるから、安心できるだろ?」

 指の感触にアゲハは笑い声を立てる。シリウスは苦笑して自らの指を目の前に広げて眺めた。
 アゲハに向けられた手の甲は黒い異様な文様で埋め尽くされていた。
 刺青を目に止めたアゲハはすぐに目を逸らす。しかし逸らしたはずの目は腕へ繋がる図柄を辿ってしまい、全身に広がっている黒い傷跡は今もアズカバンの陰をシリウスの身体に引きずらせているように見えた。
 目の端に映ったシリウスの穏やかな表情が余計に悲しさを引き立たせているように思えて、アゲハは心臓の奥が冷えるような感覚を誤魔化そうと肩まで湯に沈んだ。
「気にするなよ、もう14年も経ったんだ。今じゃ自分の皮膚の皺と変わらないさ」
 思いがけず晒してしまった過去の傷跡を気にしている様子を気取られまいと、シリウスはのんびりとした声で強張った空気を薄めようとしたが、アゲハの泳いだ視線は戻る事は無く苦笑した。
「そんなに下の方ばっかり見るなよ」

 濁らせた湯でも、シリウスの痩せた身体は隠し切れずにいて、アゲハは寂しげに微笑んだ。
「痩せてる。ちゃんと食べてるの?」
「そんなに興味が?」
 シリウスは軽い口調で笑い飛ばすが、アゲハは笑えずに、痩せた胸板に広がっている刺青に目を移した。
「見ない振りをし損ねたんだから、せめてきちんと見るべきよね」
「これも長年の不可抗力だから、あんまり気にするなよ」
「……私、あなたに同情してるのかしら」
「俺に聞くなよ」
 言葉とは裏腹に、照れたように笑うシリウスを見て、アゲハもようやく微笑んだ。
 気安く触れてはいけない事だとは思ったが、無視をするには酷すぎる。
 この気持ちを同情と呼ぶのだろうか、と苦い思いが胸に広がるが、それ以外の感情の持ち方を知らないので労わらずにはいらなくて彼の手の甲に触れた。そこにも同じく深く刻み込まれた文様が湯を纏い黒々と光っている。
「なんて書いてあるの?」
「さあ……罪状とか、刑期とか、分類とか?」
「痛かった?」
 シリウスは刺青を一瞥して目を臥せると無言を保った。
 アゲハはそれをみてかすかに微笑むと、バスタブの傍らに置かれているチェストの引き出しを開けて中を探った。訝しげな顔でそれを見ているシリウスに、アゲハはいたずらっぽい笑顔で答える。そして目的の物に手を触れさせた彼女はシリウスの手を強く握って捕まえた。

「世界一まぬけな受刑者にしてあげるわ」
 アゲハはチェストから取り出したカラーペンのキャップを取ると、嬉々としてシリウスの手の甲に花柄を描き始めた。古い文字で重罪を書き込まれている丸い図形には目鼻を書き足し笑顔にしていく。肌が徐々に気の抜けた絵柄で埋まっていく様を見てシリウスは顔を緩めた。
「なんだそりゃ。俺は60年代の生き残りか?」
「アーサーと楽しく昔話でもしてれば?」
「これでも俺は、社会復帰の準備ぐらいはしてるんだぜ?」
 シリウスはアゲハに預けていない方の手で器用にアゲハの胸元をくつろげる。彼女は警戒するようにシリウスを睨みつけるが、彼は微笑んで首を横に振る。
「知ってるだろ? 俺は安全だ」
 そしてシリウスもチェストの引出しから赤いカラーペンを取り出すと、アゲハの首筋に小さいハートマークを散らし始めた。

「自慢しろよ。やんごとなきブラック家の末裔の俺からの寵愛だ」
「出来栄えによるわね」
 アゲハは首元の感触をくすぐったがりながら微笑んだ。胸元には連なる点で表現された鎖が見え、その中央にはこぶしほどの大きさのいびつな宝石が書き足されている。
「俺は昔から美術的な教養は皆無に等しい」
「じゃあ、今から磨いてみたら? 新しい趣味になるんじゃないかしら」
「俺も俺なりにこの屋敷の中で楽しみを見出そうと努力してるんだ」
「ジニーの雑誌を読んだりとか?」
「ああ! この年になって読書の楽しみに気付くとは、まったく長生きもしてみるもんだ!」
「あれを読書って言うの?」
 シリウスが示す先には、新聞や雑誌がうずたかく積まれていた。それを見て面白がるような笑顔を見せるアゲハに、シリウスは複雑な表情で答える。
「ああ、俺が休暇中だった時期の……14年間分のニュースだ」
 シリウスは照れたような笑みを見せる。アゲハは一瞬目を見開いて傷ついたような表情をしたが、すぐに笑顔を作りそれを覆い隠した。
 アゲハがペンを止めずに描く花柄は、手の甲を埋めきって腕にまで侵食していてシリウスは苦笑する。
「見ろよ、しまいには双子にポルノ雑誌を恵まれる始末だ」
 シリウスが示す先に数冊の毛色の違う物が数冊置かれていた。シリウスはそれをアクシオする。アゲハは眉をひそめて、しかし口元では笑いながら雑誌を受け取った。
「なかなかの見物だぞ、あいつらのお手製だ」
 シリウスはにやりと笑って、アゲハの手の中の雑誌を開いて見せる。アゲハは気楽な笑い声を立てるが、すぐに眉間にシワを作る。喉の奥で笑いを堪えているシリウスが指す写真は、顔の部分だけアゲハの写真の切抜きを貼り付けてあった。
「信じられない!」
「あいつら、いろいろと勘違いしてやがる」うろたえるアゲハを見て、堪えきれなくなったシリウスは豪快に笑う。「まったく、大笑いだ」
 呆れて首を横に振るアゲハが雑誌のページを捲る。
 しばらくは眉をひそめ難しい顔で誌面を観察していたが、やがてくだらない埋め生地を読んで忍び笑い、広告の胡散臭さを鼻で笑った。
 シリウスがそれを複雑な心境で眺めていると、アゲハがある1ページを見て口を押さえ肩を振るわせる。不思議に思ったシリウスが手元を覗き込むと、滋養強壮に良い薬品の通販ページに赤く印が付けられていた。
「あいつらは!」
 シリウスが衝撃のあまり呆けた顔をすると、アゲハはまた喉を鳴らして笑った。
 
 シリウスは小さく溜め息をついて、アゲハの手のなかの雑誌を取り上げ、床へ落した。彼女がかすかに非難めいた表情でシリウスを見るが、彼はそれを気に留めずに肩をすくめる。
 そしてアゲハの胸元を更に剥き出させ、胸の谷間近くにまでハートマークを描き連ねた。
「これは俺のくちびるの代わりだ」とシリウスはにやりと笑う。しかしそれを笑みすら浮かべながら見下ろすアゲハに、シリウスは眉をひそめる。
「嫌がらないな」
「抵抗されないと、やめるタイミングが見つからない?」
「抵抗されなかったら、普通は歓迎されてると思うだろ?」
「私のことが好きなの?」
 直接過ぎる言葉に怯んで、シリウスは言葉を飲み込み照れたように微笑んだ。
「じゃあ、私を好きにしたいだけなのね」
「そんなことは言ってないだろう」
「黙ってたら、肯定してるようなものよ」
「どっちの方向に?」
 アゲハは少し考え込むような表情をして黙り、また口を開いた。
「拒絶する気も甘受する気も無いけんだけど、どうしていいのか解らないわ」
「……そういうときは本能に従うもんだ」
 シリウスはアゲハの腕を掴み、引き寄せようとするが、思わずアゲハは身を硬くして目をそらす。シリウスは苦く笑って手を離した。バスタブに背を預け、視線はアゲハを通り越して窓の外の満月を捉えていた。
 四角く区切られた夜空は、部屋の中の蒸気で曇った窓ガラスのせいでぼんやりと光っている。髪の毛先に水滴が集まり水面へ落ちた。
 するとアゲハが突然立ち上がった。水の抵抗で足を滑らすが、バスタブの縁に手をついて堪える。すっかり濡れてしまった杖を懐から抜き出すと、ドアのあるほうへ向けて閃光を放った。
 シリウスが驚いて振り返ると、そこには紐のようなチューブに繋がった耳朶が転がっていた。いつか双子が自慢げに見せびらかしたおもちゃだ。
「もう、本当に油断も隙も無い……。明日、あいつらの食事に切り刻んで入れてやる!」
 体中から水滴を垂らしながら肩を怒らせるアゲハが呟く。耳朶まで勇み足で近寄り、力任せに踏みつけるとチューブがちぎれ、ドアの外へ縮んで戻っていった。取り残され潰れた耳朶を拾い上げ、アゲハはこめかみを引きつらせる。

「もう寝るわ」
 振り返りもせずにアゲハが呟く。シリウスはその背中に密かに名残り惜しげな視線を投げるが、言葉だけはおおらかに笑う。
「逃げるタイミングが出来てよかったな!」
「ええ、おかげさまでね!」
「ちゃんと体から消しておけよ。明日の朝、双子にからかわれたくなかったら」
 シリウスが悠然と笑うと、アゲハは肩越しに振り返り、顔を顰めた。シリウスは更なる笑い声でそれに答えると、また身体を水面に沈めた。
 腕に残る花柄を見つめる。すでに水で滲んでしまってぼやけていた。なるべく擦らぬようにタオルで水滴を吸い取ったが、ふと思い直してタオルごと湯に沈め、石鹸を泡立てさせて強く擦る。
 ほとんどの花弁が湯に溶けて消えたが、かすかに残るインクに目をこらし、シリウスは微笑んだ。
 14年間を耐えた精神は、耐える事には慣れ切ってしまったと彼は俯いて笑った。









2007/11/29