red data animals

MORNING SUN

(マフィンていうのは、あの白い薄い円盤形のざくざくしたイングリッシュマフィンを想像していただけたら幸いです)



   



 は快適な羽根布団の中で寝返りを打った。
 重い身体をなんとか起こしてベッドから抜ける。簡単に身支度を済ませようとバスルームの洗面台の前に立つと、昨夜のファンキーな寵愛の後がまだ残っていた。
 は顔を顰めて、いびつなハートと宝石を見つめる。赤いインクは皮膚にしっかり染み込んでいるが、昨夜の水滴のせいか少し滲んでいた。
「満月のせい、ダニのせい」は不機嫌な声で呟いた。「それで満足?」
 鏡の中の自分自身も同じように口を開き、眉をひそめた。は表情を緩める。鏡の中の自分に対して探りを入れても不毛なだけだと息を吐いて笑った。
 床のタイルが冷たくて体が冷えたので、どうせ着替えるついでだと思い服を脱ぐ。そしてバスタブの中に足を滑らせ、シャワーのコックを捻ったところで昨夜の事を思った。
 ブラック家の高級なホウロウとは違うが、ホグワーツの紋章入りのバスタブもなかなかのものだと思わず笑みがこぼれた。何より、床がタイル張りで水掃けに気を配らなくていいところが素晴らしい。
 

 朝食を取る為にホールへ降りようと、石畳の通路を早足で通り抜ける。
 ホグワーツの朝は清潔で冷たい空気に満たされていた。窓の外に目を逸らせば、太陽の光を受けて白く光る雪が屋根や地面の上を覆っている。
 寒さに負けて、首元までをきっちり隠すニットを着込んでいるので凍えるほどでは無いが、それでも息は白く置き去りにされていく。
 ホールの前まで辿り付くと扉の中から温かさが滲み出ていたので、肩に捲いたストールを無意識に緩めた。

 両開きの扉が勝手に開き、はホールの中へ足を踏み入れる。
 まもなく新年を迎えようというホグワーツに人影はまばらだった。普段なら生徒のための長机が詰め込まれている広間も、今は教師用のテーブルが一つと、冬の休暇をホグワーツでやり過ごそうと言う奇特な生徒のためのテーブルが一つだけ置かれていて、がらんとしていた。

 しかし早朝にもかかわらず、テーブルの上には朝食用の食器が美しく並べられている。は空腹を抱えて広間の奥へ急いだ。そして朝から不機嫌な顔をしている男の右隣へ腰を下ろす。
「おはよう、セブルス。早いのね」
「平常通りだ。別に早くも無い」
「じゃあ、みんなが休日時間なのね」
 平坦なスネイプの声には軽く頷くと、目の前の食器を杖でつついた。すると温かなマフィンが皿から生えてきて湯気を立てる。半分に割られたマフィンの焦げ目を満足そうに眺める。そのままの軌道でカップに触れると、そこにも熱い紅茶が出現した。
 硬く固まったバターをの目の前に押しやりながら、スネイプは尋ねる。はバターに目を留め、ナイフで削り取ってマフィンに塗りつけた。
「それで? あれから屋敷では建設的な意見は出たのかね?」
「……あれから?」
 が驚いた顔でスネイプを見返すと、彼は訝しげな顔で「昨夜もいつもの現実逃避の時間つぶしが始まったのでは?」と繰り返した。はようやく質問の意味を理解すると、気楽な口調で答える。
「ああ、ええ、新年の集まりのディナーのメニューが決まったわ。あなたも議論に参加するべきだったのに」
「……食べない献立を考える奴がどこに居る」
「まあ、昨日決まった事なんて、誰も覚えてないんでしょうけど」
「だろうな」
「新年の集まりに、あなたも来るのかってみんな心配してたわ」
「お前は行くんだろうな」
「あたりまえじゃない。あなたは?」
「聞かなければ解らないのか?」
「……あなたが顔を出すかどうか、賭けの対象になってるのよね。今からどっちか解れば私はボロ儲けよ」
 スネイプは苦い顔をして思い切り眉をひそめる。それを見ては楽しそうに肩を揺らす。
「……誰がどちらに賭けている」
「みんな来ない方に賭けてるから、今のところ賭けが成立してないの」
 スネイプは冷笑し、あざけるような表情で自嘲した。

 とりとめのない会話を区切るようにホールに一羽のフクロウが音もなく滑り込んできて、スネイプの前方で丸めた紙の束を落下させる。スネイプはそれを受け取ることなく、杖を用いて空中に留まらせて開いた。日刊預言者新聞の紙面では、魔法省の人間が威厳を持った相変わらずの顔で朗々と自説を述べている。
 ほぼ朝食を終えたスネイプが杖で皿を叩くと、瞬時に朝食の残骸は消えうせて新品のような皿だけが残った。もう一度叩くと皿すらテーブルクロスに溶けて消える。
 スネイプは紅茶に手を伸ばし、紙面を目で追いながらすすった。

 マフィンの半分を食べ終えたは、次はジャムにしようか、それともバターで食べ続けるべきかを悩み、視線をさ迷わせたところでスネイプの腕に目を留めた。
 スネイプの左手は紅茶のカップの近くに置かれ、新聞も杖も持つ必要のない右手はテーブルの上に伏せて置かれていた。

 はスネイプの右手のカフスボタンを外す。休日なので平時よりは簡素な洋服を着ているものの、それでもしっかりと全部のボタンを閉じているスネイプの真面目さに感心し、彼女は思わず笑った。そのまま果実の皮を剥くように、袖を肘の上まで押し上げる。
 スネイプはの突飛な行動に眉をひそめるが、新聞の記事から目は離さずに口の端を歪めるだけに止めた。

 はむきだしになったスネイプの腕を検分する。
 贅肉どころか必要な脂肪分さえ蓄えていないような腕でも、自身の腕と比べると太く見えた。手首の内側には筋が見えて浮いている。指先で触ると硬く、お世辞にも滑らかな肌触りとは言えない。
 腕を持ち上げて裏返し、手の平を伏せるようにテーブルに置いた。
 特に意味のある行動ではなかったが、思わず忘れていた事実に気づく事になる。忘れていたと言ったら語弊がある。事実は事実として認識していたし、もう数え切れないくらい目の当たりにしているのに、それは朝食の席に晒すには場違いだった。

 肘の下に刻み込められたドクロとヘビが見えた。肘が曲げられているので、少し外側に向かって歪んでいる。深緑と濃い赤を混ぜたような混沌とした色合いは、朝の光を受けてもなお陰鬱な陰影を皮膚の上に落していた。初めて目にしたわけでもないのに、やはり見るたびに背筋が冷たくなるような不安感があった。
 スネイプは自身の腕をすばやく一瞥したが、すぐに紙面へ目を戻した。
 暗い闇色の輪郭線は、血液の流動にあわせて濃淡を移ろわせているようにも見えては息を呑んだ。
 線と線の間でかすかに隆起している皮膚に触れたいと思ったが、刺青に触ってしまうと、何か別の意味に取られてしまうのではないかと杞憂して触れられずに居た。
 しかしふと気付くと、刻印の図案にではなく、その中身のスネイプの事ばかり気にかけているなと、思わずは微笑んだ。不快感はいつのまにか消え、それどころか胸の奥に暖かい感情が湧いてくる。

 その刻印をが無言で見つめている様子を、スネイプは新聞を読むついでに目の端で捉えていたが、特に何を言うわけでもなくそのままにしておいた。
 しかし腕を見ているばかりだと思っていた彼女が、いつのまにかスネイプの表情を観察していた。お互い意図せずに目が合ってしまったので、思わず表情の緊張が緩む。密かに盗み見るには距離が近すぎた。

 残りの半分のマフィンの存在を思い出したが腕を解放したので、彼は腕を袖の中にしまった。
 は左手でマフィンをつまみ、口に運んでいて、右腕は無造作にテーブルの上に置かれていた。
 スネイプは彼女の右腕の手のひらを開かせ、天井に向ける。はそれを見下ろし、そのまま瞳だけを上目遣いにスネイプを見て笑った。
 スネイプはそ知らぬ顔での袖をまくり、白く滑らかな腕の内側に触れる。細く青い血管がうっすらと皮膚の下に透けて見えていたが、不思議と寒々しい印象は受けず、どちらかというと健康的な肌の色を引き立てていた。
 指先で血管をなぞり、手首を通り越して手のひらのくぼみで指を止める。そして少しそこに留まったのち、指の付け根の下の、すこし膨らんだ部分を軽くなぞった。

 は自分の皮膚の思わぬ敏感さに驚きを隠せずに、スネイプの顔を疑うように見た。
 それでもスネイプの視線は新聞の文面を追っていて、手の動きなどまるで関係ないような表情をしていた。彼は指を浮かせて、また彼女の手のひらの人差し指の付け根の下から小指の方まで指先を滑らせる。
 触れるか触れないか解らないほどの軽い感触でしかないのに、朝の無防備な肌にもその感覚ははっきりと染み入った。強く押し付けているわけでもなく、ずっと触れてもいない。素早くなぞったかと思うと、また一呼吸置いてから、掌紋の隆起すら辿れそうなほどゆっくりと撫でる。そのタイミングは新聞の記事の長さに左右されているのではと思うほど、作為的ではなく予想が出来なかった。
 は手のひらを横断する感覚を慎重に辿りながら、それでもマフィンを口に運び続け、乾いた唇を密かに舌で舐め、紅茶で潤した。

「三大欲を同時に二個も味わえるなんて、贅沢の極みだわ」
「朝から何を言っているんだ」

 スネイプが新聞を眺めたまま無表情で言うので、は肩をすくめる。
 めぼしい記事を拾い読みし終わったのち、スネイプは日刊預言者新聞を閉じた。安い紙の擦れる音がホールに思いのほか大きく響く。
 は睨むようにスネイプを見あげるが、彼はの目前のテーブルに目を落とし、「食べこぼしている」と苦笑した。







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2007/12/12