ボヘミアンラプソディ
「なにやってるの、そんなところで」
はたまらず吹きだすように笑った。
暗い図書室の隅で地べたに直接座っていたスネイプは若干不機嫌そうに眉を歪め、彼女の顔を見上げた。
「別に」
スネイプは彼女のかかげている携帯用のランプが眩しいのか、いっそう機嫌悪そうに目を細めて視線を足下へもどし、うつむいた。足下には透明な茶色い液体が小さなグラスに半分ほど注がれていた。
「灯りも無しで、暗い中で、何してるのよ」
「別に、灯りなど必要ない。手元が見えれば我輩はそれでいい。城の中をいまさら散策しようという気などまったくないのでな」
文学的な雰囲気に満たされている図書室には場違いな香りがたちこめている。
が彼を発見した時、ちょうど彼は何杯目かの酒を手酌で追加しているところだった。
「あ、そう」
は短く言うと、「あんたが夜中に出歩くなんて、優等生だったセブルスが、すごい大人に育ったもんね」と笑った。「しかも、お酒まで飲んで!不良だわ」
小さなグラスに結露を作っていて、石の床の色を一段濃くしていた。スネイプは彼女の声を避けるようにうんざりとした顔で、水の輪を指でなぞる。
「お前こそこんな所で何をしているんだ」
「別に?」
「そうか」
「ヒマだったのよ」
「ほう、世の中の夜勤の救急隊員が忙しくかけずりまわっている夜を、そなたはヒマと表現するのか」
「あなたも、人のこと言えないでしょ」
「我輩は、翌日の授業の資料を探しているのだ」
「お酒飲んで?」
「いかにも」とスネイプがうなずき、グラスの中身をあおった。
「バカみたいね」とは呟いて、スネイプの正面にしゃがみこむ。「今夜のあなたはバカみたいにしゃべるわ」
「さあ、そんなことはない」
「どうせなら、下ばっかり見てないで私の顔見てしゃべりなさいよ」
「お前の顔なんて、望んで見たい者がいるものか」
怒るわけでもなく、けらけらとは笑った。
「バカね。私、あなたが素直じゃないなんてこと、十何年も前から知ってるのよ」
「……自惚れるな。この自意識過剰女め」
にやりと笑ったスネイプに、「失礼ね」とはまた笑って彼の横に座った。金属の灯りを床に置くと、カランと音が響いた。
「私にもわけてよ、それ」
はスネイプの脇に置かれている酒の角ビンを指差す。
「イヤだ」
「なんでよ」
「おまえと酒を飲むなど、生きているうちはごめんだ」
「あらそう。じゃあ、あなたが死んだときには、おいしいお酒を持って乾杯に行くわ」
フン、とスネイプは鼻をで笑ってグラスの中身を喉に流し込んだ。
「ああ、ヒマだわ。あなたのおしゃべりは全然楽しくないし、私には一滴だって飲むお酒がない」
「ヒマなら部屋に帰るか、本でも読んでいろ。幸いここにはたくさん本があるようだからな」
「貴重な情報を、どうもありがとう」
「なに、礼には及ばん。当然の事をお伝え申したまでだ」
「それはまた、ずいぶん紳士的ですこと!」
は腰をひねって後ろを振り返り、適当な本の背に指をかけて薄い本を一冊とりだした。そしてけたたましい笑い声を上げる。
「……おまえ、ついに頭がおかしくなったのか」
げらげらと過剰に笑う彼女を不審に思うように、スネイプは鬱々と息を吐く。
「だって、セブ、あなた、何の本棚の前にいると思ってるの?」
スネイプは怪訝な顔で背後を振り返る。運動不足のためか、首の骨がこきりと小気味いい音を立てた。
「まったく、老人は骨が弱くて困るわね」とがまた笑うと、スネイプは「我輩が老人ならばお前も年寄りだ」と軽口を聞いた。
「いいから、さっさと確かめなさいよ。本棚の中身を」
振り返ったそこには最低学年の子供か、幼児趣味の歪んだ大人が読むような児童書ばかりが並んでいた。スネイプは唸る。しかしはついに我慢できなくなったのか、肩を震わせて大声で笑う。
無秩序に並んだ本はサイズが統一されていないので、数冊の本の背は棚からはみ出していた。スネイプがうんざりとした様子で本棚に背中を預けようとすると、はみ出した本の角が背中にあたり、ちいさく彼はうめいた。
「童話の本棚の前で資料探し?」
げらげらとは、「うるさい」と言うスネイプの言葉も聞こえないようで、呼吸が出来ないほど笑っている。
「ココアでも持ってきてあげましょうか、セブルス?」
「……ココアはエスプレッソと混ぜてくれないか。それならばまだ飲める」
冗談とも本気とも思えぬ口調でスネイプは言った。はまだ爆笑しつづけている。
「ダメよ。子供がコーヒーなんて飲んで、眠れなくなるわよ!」
「もう、今だって夜中だ」
「そうね、子供はもう寝る時間だわ!」
は後どれくらい笑いころげているのだろうか。スネイプは彼女の横隔膜と腹直筋の心配をしかけたが、心配などするものか、と考え直し、しばらくほおって置いた。
彼女はそういう人間なのだ。ほんの少しの事で何時間も笑っていられる奴なのだ。頭蓋骨の中には脳のかわりにコールスローが入っているような女なのだ。それが幸せかどうかは解らないが、すくなくとも我輩は自分の脳細胞が惜しい。
「お前は一人で“笑いが止まらない”NPOでも立ち上げたほうがいいんじゃないか」
「N・なんで、B・ばかみたいに、O・大笑いしちゃうんだろう?」
彼女は自分で言ったことでさらに笑いを広げ、息も出来ないようだ。
「馬鹿者。Pだ。Bではない」
「あんたの発音が悪いのよ」
「特定非営利活動法人ぐらい知っていろ。馬鹿が」
「N,なぜ我輩の、P,が聞き取れないんだ、O,大馬鹿者」とは呟き、さらにハー、ひゃっひゃっひゃっ・ヒーヒヒ激しく笑った。
「勝手に笑っていろ」とスネイプは吐き捨てるように言った。
そして諦めたように、空の小さなグラスを無視し、床にじかに置いてあるガラス製のミニチュア瓶に直接くちをつけて蒸留酒を飲んだ。本当に、酒でも飲まなければやってられない。と彼は思った。
彼女はほとんど笑い病のように見え、スネイプはそれを指摘しようか頭の隅で少し悩んだが、さらに笑われることになるだろうと思って(笑い病だから、『何でバカみたいに大笑いしちゃうんだろう』の会員第一号だから、何を聞いてもきっと笑うのだ)黙っていた。
延々と腹を抱えて笑いつづけるの足が、床に置かれたランプを蹴ってしまった。金属のぶつかる渇いた硬い音が図書室に響き、火が消える。あたりを深く青く透明な闇が静かに包んだ。
カラカラと音をたててランプは目の届かない先へ転がっていった。ローブの中からスネイプが杖を取り出し、小さな灯りをともすために口の中で呪文を唱えようとすると、は彼の杖の先を手のひらで包み、ちいさく首を横に振った。
スネイプは杖をしまう。あたりは思いのほか明るく、おたがいの顔くらは不自由なく見ることができた。今夜はどうやら月が明るいらしい。
「あんたの顔をわざわざ明るいところで見るなんて、冗談じゃないわ」
は笑わなかった。
「なあ、」
ぴたりとの笑いが止まった。急にしっかりと背を伸ばして座りなおし、両手を膝の上にそろえる。
「何よ。私たち、ファーストネームで呼び合うほど仲がよろしかったかしら?スネイプ教授」
まるでマクゴナガルを真似るかのように静かな硬い声が響いた。
「ふざけるな」
スネイプは強い声ではっきりと言ったにもかかわらず、その発言をした事を後悔しているように見えた。
「お前は、すぐにそうふざけて、」押し殺したようなかすれた声で彼は言って床を見つめる。
「あんたは、すぐそうやっていじける」
「お前は、いつもすぐにそう、はぐらかすんだな」
「セブルス、」
思いのほか冷たい声が出たことには自分で驚いたのか、すぐに言葉を切ってスネイプの顔を見た。
スネイプも彼女の顔をただ見ていた。窓枠で細切れになった月の灯りがの顔を照らしていた。青い陰が周囲を満たしている。それは昼間よりも顔の陰影を深く見せ、頬の血色は少しも感じられなかったが、唾液でぬれた唇は普段よりも色が濃く赤く見えた。
は顔にかかる一房の髪を人差し指で耳にかけた。スネイプはそれをぼんやりと見ていた。
「あんた、なんて顔してるのよ」
平坦な口調で彼女は言った。
「別に、普通だ」
スネイプは床の目地を指でなぞり、漆喰を無意識に爪で削った。
「そうね、あんたはいっつもそんな顔ね」
はまた歯を見せて笑った。
「そうだ」
スネイプは口の端だけを歪め、かすかに笑う。「別に、何も、変わったことはない」
そしてまたいつもの冷たい無表情さを取り戻したが、はあいかわらずほほえんだままだ。
窓の向こうでは夜の空に月が浮かんでいた。
丸い月はそろそろ沈むだろう。そしてまた太陽が昇り朝が来る。「なぜ月が沈み日が昇るのか、それは地球が回っているからだ」とガリレオの気分で呟いた。
「あんた、天文学の教師だったっけ」と彼女は怪訝な顔で聞き返す。
「いや、我輩は魔法薬学の教師である。しかし地球が回っているという事とそれとはまったく関係が無いことだ」と彼は真面目な顔で答えた。
「バカね、天動説がいまの流行よ。そんなこと言ってたら殺されるわよ。みんな保守的なんだから」と彼女は笑った。「裁判所では嘘を付くさ」と彼は真面目な顔で答えた。
二人分の体重をうけて児童書の背表紙は少し歪んだ。ななめの方向から体重をかけたので、あまり痛くはなかった。
「ガリレオガリレオガリレオフィガロー」
のヘタな歌が深夜の図書室の闇に溶けた。「お前は音楽の教師だったか?」スネイプが口の端を上げてちいさく笑った。
「いいえ、ちがうわ」は真面目な顔で答える。
床は石敷き。冷たく痛いが、たまにはこんな夜があってもいいだろう。二人は笑った。
2004/11/2