DISCO KID

「疲れてるんじゃ、なかったのか」
「それなりに疲れてはいますけどね。でもそれ以上に、私たち住み込み労働者はロンドンなんてたまにしか来れないんだから」

 彼女は空港で買った情報誌を隅から隅まで眺め、いわゆる“夜遊び”の場所を探していた。
「そんなことよりも、すこしばかり格調高い区画で、ささやかな夕食を取りたいのだが」と提案してみても、キオスクの薄っぺらい雑誌にはそのような店の情報も無かった。ドラッグストアのような本屋ではなく、しっかりとした書籍の挿された棚のある本屋であれば、すこしばかり格調高いガイドがあるだろうとは思った。しかし、笑顔とチョコレートと握手ばかりか、抱擁まで押し付けられそうな本屋の店員に耐えられるわけも無い。
 仕方なく「我輩の知っているところにご案内いたしましょうか」と進言しても彼女の意思は固く、けして譲歩しようとはしなかった。

「せめて夕食を取ってから君の行きたいところに行ってはどうだね」
 ポルノ雑誌まがいの下品な情報誌を眺めるは、こちらの方を見あげる事すらなく、楽しそうにページを括っていた。
「私はダンスホールの近くでなげやりに経営してるスタンドのやすっぽいフライドチキンが食べたいの」
「そんなものを食べると、犬になってバカになる」
「……セブルス、あなたみたいな人は、たまにはバカになって遊ぶ事も必要だと思うの」
 冗談を真面目な顔で言うことが、彼女の最近の趣味らしい。たぶん、自分ではおもしろいと思っているのだろう。会話と話題に直接関係のない人間ならおもしろいと思えるかもしれないが、言われている者としては、おもしろくもなんともない。
「自分が遊びたいんだろう。人のせいにするのはよさないか」
 は雑誌から目を上げ、我輩の顔を見て笑い、一呼吸置き、強い口調で言葉を放った。
「セブルス。それ以上ごねるとね、あんたは毎朝消毒薬で洗顔して使い捨ての医療用ガーゼで水滴を拭いてて、菜食主義で前戯無しの正常位しか知らないつまらない男だって言いふらすわよ」

 ……これも冗談だろうか。
 良識を持った常識人はそのような根も葉もない噂を信じたりはしないだろう。そもそも普通の人間がこのように脅迫する場合は大抵冗談なので、変な事を実際に吹聴するわけではない。
 しかし、ホグワーツの人間は良識を持った人間ばかりというわけではない。蓋骨の中には脳味噌ではなくクリスマスプディングが詰まっているような知能具合なので、我輩が医療用ガーゼ医療用ゴム手袋愛好者という戯言も信じ込んでしまうに違いない。つまり、我輩の職場環境は今の時点ですでに最悪なのだ。
 そしても、どこか平均や普通や通常というあたりをバカにしている節がある。それは、立てばシャクヤク、座ればボンタンアメ、飛んでく姿はビーニジュウクというような逸脱具合である。

、お前がいくらバカになろうと、それはそちらの勝手だが、もう少し“慎み”や“礼儀”というものを持つ努力をしてみたらどうだね」
 思いがけずに浴びせられた根拠の無い暴言の衝撃をひきずったまま答えると、は泡を口の中で潰すように、息だけで笑うと、「じゃあ、スネイプ。そこらへんのコンビニで、私のために“品性”ってものを買ってきてくれないかしらね」と事も無げに言う。
「……ついでに“羞恥心”も買って来てやろうか」と、呆れた表情を強調する為に額に手を当てて低い声でうなってみても、「お願いするわ」とは真面目な顔で微笑んだ。まるでアメリカ人の、そつのない、本心は隠すタイプの弁護士のようだ。
 たまに、彼女は本気でバカなのか、それとも高度な冗談を飛ばしているのかの区別がつかなくなる。たぶん、純粋混じりけの無い、希少種のような純正のバカなんだろう。しかし、それでは彼女と会話できてしまう我輩もバカなのでは?
「ちなみに、それは本気で言っているのかね」
「半分くらいね」
 べつに社会的信用や人気などは惜しいと思っているわけではないが、しかたなく、やむなく、我輩は彼女の要求を呑んだ。繰り返すが、我輩は自分の名誉や評価ではなく、生活のし易さを守ろうとしただけなのだ。最悪よりも酷い場合があるかもしれない。





  地下鉄で紙袋でビンを覆ったまま酒を飲む酔っ払いと、無意味にドアに頭を何度も打ち付けている若者に挟まれながらも乗換えを繰り返し、なんとか目的の駅にたどり着いた。駅のiマークのインフォメーションカウンターで近くのホテルを取り、チェックインは深夜になるがキャンセル扱いにはしないでくれと頼んだ。チップを余計に払うべきだろうか。
 クラブハウスは駅からは大きい通りと細い通りがちょうど合わさる場所にあった。300メートル先からも、店内から漏れる重低音が夜の町に響いていた。この騒音に近所に住んでる人が苦情を出さない物かとふと思ったが、それは我輩には関係ない問題であるし、見たところ周辺の住民はコークとコカをミックスしてたしなむような人間ばかりに見えたので、あまり問題はないのかもしれない。
 老人と子供には耐えがたいほど歩きにくい細く狭く急な階段を下り(そもそも老人と子供はこんな所には存在してはいけない)、はなれた様子でチケットを買い(正確には我輩に買わせ)フロアに下りた。





 フロアに一歩足を踏み入れると、そこはもう全ての色彩感覚が狂っている場所だった。床は発光し、壁も柱も発光し、天井も例のごとく光っていた。しかし、明るくはない。そこらじゅうで発光しているのに、暗いとはどういうことか。という問題に我輩が直面している間、すでにはフロアの中ほどに進んでいた。
 ミラーボールの光の粒がの頬に肩にふりそそいだ。光の当たるところだけ半透明に青白い斑点になっている。それは光があたっているというか、彼女の表面に細かい穴があき、内面から光が漏れているように見えた。
 見られていることに気付いたは歯をかみ合わせたまま唇だけを大きく横に広げて笑った。頬が盛り上がり細くなった目の下にも光の斑点が現れそばかすのように見えた。染みと言ったら彼女は激怒して走り出すだろうから(メロスのように)多少湾曲した表現として“そばかす”を用いた。この配慮を評価して欲しい。その発光しているそばかすも(けして染みではない)頭上のミラーボールの回転に合わせ、動いて消えていった。
 赤とか青とか、とにかく人工的な色のライトがぐるぐると空間をかき回すように回転している。すさまじい音量の音楽は鼓膜を振動させるというよりも肋骨と頭蓋骨に響き、熱気やら得体の知れない煙やらを浴びる肌が呼吸をできずに、毛穴が酸素を求めていた。背を壁につけながら、なんとか三半規管が水平を保って立っていられるようなホールだった。
 背後に柱、左右に女、懐に金、正面には酒。という状態が男の理想らしいが、それは女の理想とも取れるのではないだろうか。はフロアを3歩歩けば歯の抜けた男に30秒に一度のタイミングで声をかけられているし、前へ3メートル歩けばバーカウンター。そして我輩のクレジットカードを自分の物のように使おうとする。なんて横柄な女だ。

 我輩は壁際に配置されている、やたらに背の高い回転するイスに座って天井で回転しているライトを眺めながらビールを煽ってみたり、市松模様の滑りそうな床のタイルの数を数えながら塩を舐めつつレモンを舐めつつテキーラを嗜んでみたり、DJのヘッドホンのケーブルがどこにも繋がっていない事を確認しながらなんだかわけのわからない色の液体(アルコール)を舐めてみたり、と一人でそれなりに楽しんでいた。
 ただなんとなく喉を通って胃に落ち着くだけの酒も、2杯3杯と飲み干していくうちに、胃が温かくくつろいでいくような感覚が湧き上がってくる。それでも次々とグラスを開けていくと、胃と脳の神経が繋がり、ああ酔いが回っているのだな、と気分がよくなってきた。
 で、バーカウンターとフロアを往復してかなりの量のアルコール系飲料消費によって飛翔しそうな勢いで浮かれているし、「出世のための摂取と出家」とか「ロバが好きです、でもゾウのほうがもっと好きです」と叫び始める始末である。早くも酔っている。たぶんちなみに、ゾウは星条旗柄ではなく、ピンク色のほうだろう。

「飲みすぎだろう」 
「そんなことないわよ」
「いいや、飲みすぎだ」
「そんなことないってば」
「飲みすぎだろう」

 ……会話が不毛である。認めたくはないが、どうやら我輩も多少、かすかに、微量に、どことなくそれとなく、ほのかに酔っているような気がしないでもないような気がしないでもないでもないような気がする。ピンクの像が飛んでいる。しかたがない、迎え酒だ。ハイネケンを瓶ごとバーテンダーから受け取り、おもいきり煽った。炭酸の泡が舌を刺し、細かい痛みのような刺激が口内に広がる。口の中の細胞が悲鳴を上げているんだろうなと思うと、どうにも楽しくなってきて笑えてきた。それから先は紆余曲折を乗り越えるなどいろいろあったのだが、あまり思い出したくは無い。ただ、数人(類は友を呼ぶというやつだ。ところで、ルイはホモを呼ぶ、とは誰の言葉だったか。ルイとは14世とか16世とか14世のことだろうか。……こんなにカッコが長いと、カッコ前後の脈絡がわからなくなってしまうな)とバーカウンターの上で踊っていたを引き摺り下ろすことに苦労した事と、歩く気のない彼女を運ぶ事が大変だった事だけは、ここに記しておきたい。

 









 翌朝、外は気持ちよく晴れていていたので、朝食はテラスで取ることにした。青々とした庭を眺めながら落ち着けば、きっとも目が覚めるだろう。
 二日酔いの頭を抱えたは、日の光すら頭痛の種になるらしく部屋どころかベットからでることも拒否していたが、昨夜の我輩のささやかな願いを聞き入れなかったのだから、朝食にぐらい文句を言わずに来るべきだ。
 は紅茶を少し啜っただけで、テーブルに肘をつき、こめかみを手で押さえていた。
「食べないのか?」
「食べれるわけないじゃない……」
 ホテルの厨房で焼かれたばかりのパンにバターを塗りつけながらを眺めると、彼女は口を開く事すら重労働のようで、必要最小限の口の動きで気だるげにうめいた。
 その様子があまりにもおかしく、なんとなく思いついてウエイターを呼んだ。そして昨夜彼女が飲んでいた馬鹿らしい名前の青いカクテルの名を彼に告げると、はほとんど吐きそうな表情で顔色をさらに悪くした。テーブルに突っ伏そうとしていたが、健康的に白いクロスの上には所狭しと皿が並んでいたので、彼女は頬杖をつくだけにとどめた。

 朝食の席に不似合いな飲み物も、よく訓練されたウエイターはいぶかしげな表情一つせずに、朝刊でも持ってくるようにうやうやしく銀の盆に乗せて運んできた。
 仰々しく傘やらフルーツやら花で飾られた大ぶりのグラスのなかで、炭酸の泡の粒が縁にそって白く盛り上がっていた。はそれを視界に入れぬように横を向き、膝の上のナプキンの角を指でいじっていた。
「どうした、これが好きじゃなかったのか? 昨日はあんなに飲んだだろう」とせせら笑うと、こちらを睨みつけるように顔を上げたが、青い顔で凄まれてもまったく迫力は無い。

 誰にも手をつけられないカクテルはグラスの縁に泡を白く盛り上がらせ、たまに氷が溶けて動くだけで、そのまま変わりなくほおって置かれた。デニッシュとティーカップとフルーツに囲まれた重そうなグラスは居心地悪そうに、ただグラスの外側に結露を作り、白いテーブルクロスに染みを作っていた。
 朝だというのに日差しがいやにまぶしい。相変わらずは朝に合わない鬱々とした顔をしていたが、オレンジジュースと少しの野菜とフルーツ、そして太陽のおかげで、いくらか顔色が良くなってきたように見える。日差しは体内の時計のネジを捲き、調整してくれるのだそうだ。
 「食べる気はあるんだけどね、もう少ししたら食べ始めようと思ってるんだけどね」という無言のアピールなのか、はワッフルをフォークでつついている。硬く香ばしそうに焼けた薄い四角いワッフルは、焼かれる前のパイ生地のように、無数の穴が開いていた。
 なんとなくそれを摘み上げ(とくに彼女は抵抗を見せなかった)、彼女の顔の上にかざしてみると、穴から光の粒子が漏れて、彼女の顔に光の斑点を落した。それは昨日のの顔に似ていた。彼女は今朝も発光している。
 
「なにしてるの?」
 どうやらにも顔を上げる余裕が出てきたようだ。
「べつに、昨日の反芻をしているだけだ」
 彼女は笑って、青い炭酸の飲み物に口を付けた。我輩が怪訝な顔をすると、「こうなったら迎え酒よね」と笑った。縁に挿されている傘やらフルーツやらを指でどけたが、赤いハイビスカスはそのままで飲んでいた。グラスの縁に口をつけるたびに、彼女の頬に赤い花弁が触れていた。そしてグラスから口を離すたびに唇が赤い花弁に触れた。
 そしてグラスの縁に、赤く透明な染みがついていることに気がついた。いつのまに付いたのだろうか、あれは何だ。と我輩が頭の隅で考えていると、それに気付いたらしいが、親指の腹でそっと拭った。
 そういえば彼女は朝、まるで重労働を強いられているかのような仕草で、透明な小さいチューブから赤い色をくちびるに塗りつけていた。しかしその努力も悪すぎる顔色の上ではあまり役に立たず、今までその事を忘れていた。しかし、グラスの上に移るだけで、微量であるにもかかわらず、それは奇妙な存在感に溢れていた。
 
「そんなに花が気になる?」
 彼女はまた笑った。グラスの縁を見ていただけだったのだが、からは花を眺めているように見えたのだろう。彼女は剥げかけた赤いマニキュアのついた指で花をつまんで持ち上げた。そして花弁に顔を近づける。花に触れる瞬間、口の裂け目から舌先だけを出して花弁を掠めるようになめた。
 のくちびるから垂れる雫か、それとも赤い化粧品なのか、微量に起毛した花弁は濡れてそこだけてらてらと光を反射している。その色がどちらの赤なのかは、区別がつかなかった。
 花の赤色と口紅の赤色に差が無いとは、花に対して不公平なような気がして、境界や違いをなんとか探ろうとその花を見ていた。

「あなたの耳の上に挿しても、きっと似合わないわね」
 はやる気なく、しかし楽しそうに花を摘んでいる。
「……おまえのほうが似合うだろうな」
 彼女の手から花を受け取ろうと手を伸ばすと、花弁のひんやりとした感触が指先に当たった。短く切られた茎から指へ水滴が伝う。しかし、その水滴の温度はの指とはあまりにも差があり、指の熱さを余計に際立たせるだけで、涼を感じるどころか、彼女の笑う唇にさらに熱せられているような気分になる。

「あなたは持ってるだけでも似合わないわね、セブルス」
 はすっかり回復したようで、日の下でまつげの陰を目の下に落して笑っていた。
 太陽は、人工物にも自然物にも彼女にも我輩にも公平に熱い光線をふりそそいでいた。


















2005/10/2