goodbye yellow brick road
2
オレンジとも真紅ともいえない微妙な色合いの美しい光が、歩く二人の黒い
陰を作り出している。
アゲハが少し歩きたいと言うので、ホテルに荷物だけを置き、そのままの足
であてもなくふらふらと二人で歩いた。
アゲハの靴はとても歩きにくそうで(たぶん健康にも悪いと思う)ゆっくり
と歩いた。
少し歩いては目に付いたカフェで休憩を取り、また歩いた。その繰り返しで
もう夕方になってしまった。
目的地のない散歩というものは際限がない。気がついた時には出発地からも
のすごく遠くまできてしまって愕然とするのだ。
私の家に泊まればいいのに、と彼女は言った。我輩も彼女がそう言うだろう
ということは予想していたが、もう予約をいれてしまったから、とか迷惑を
かけるわけにはいけない、とかあいまいに答えた。
なるべく人通りの少ない道を無意識のうちに選ぼうとするのは、ここ何年か
のうちに染み付いた習慣だろう。
もうそんなことは気にしなくてもいいのに、自分達の隠すべき関係は環境の
変化とともに終わったのに。
「卒業、したくなかった」
気温の高く、のぼせるような夕陽の赤い色の中でアゲハはつぶやいた。
強い光によっていつもよりも深く見える顔の陰影、伏せた目が印象的だった
。
「……そんなことを言われても我輩にはどうする事もできない」
わかってる、とつぶやいて立ち止まり、背伸びをして彼女は我輩のくちびる
にキスをした。
「……でも、聞きたいのはそんなことじゃないの」
目を伏せたまま、そう言った。我輩もアゲハの顔をまっすぐ見ることが出来
ないでいる。
「では、なんと言ってほしいのだ」
肩を掴む、そんなことをしても何の解決にもならない。ただ、雰囲気が悪く
なるだけだ。
ただ歩いている二人の距離を縮めたくて腕を掴み引き寄せて、急ぎ焦るよう
な、焦燥感を埋めるためだけのキスだけを数回する。
しさし埋められはしない。むしろ乾いていくばかりだ。
出来るならばこのまま、アゲハも未来も明日も無視したい。
「じゃあ、先生。私はどうすればいいと思う?」
「それは君が自分で決めることだ……好きに、すればいい」
交換しあって混ざり合った感情を分離させる事などできはしない。最初から
、保護された生徒と教師という関係だけをつづけていればよかった。
彼女はただ我輩を見ていた。もうとっくに模範的な教師ではないのに、型か
ら押し出したようなことしか言わない我輩にあきれているのだろうか。
そういえば、二人で映画を見に行った事がある。
彼女は授業をサボり、我輩は認められた休日として学園の敷地を出た。その
ころから我輩はアンフェアだったのか。
魂の半身をさがすが結局は傷ついてしまう少年の映画だった。魂の半身なん
て物は存在せず、やはり空には天国も神様の“願い事を叶えるリスト”も運
命盤もなく、ただ空気があるだけだ、というメッセージだと我輩は解釈した
。(そう信じる事で安心したかったのだろう)
しかし彼女はその真逆をとなえた。最期のシーンは再生だと、これから彼は
本物の魂の片割れを探しにいくのだと。
たしかに多数の映画評論雑誌での意見もそのような解釈のしかただった。
「先生はひねくれている」とすこし笑ってあきれたように彼女は言った「夢
がない」と。
成長するとはそういうことだ、と我輩は言った。大人になるとはそういうこ
となのだ。
意味もなく、どちらからということもなく、その日は学園に足を踏み入れる
ぎりぎりまで手を繋いで帰った。
列車のシートに並んで座っているあいださえ手を離さなかった。
手をつなぐという行為は、キスとか抱きしめたりとかとよりも難しい、とい
うような事を彼女は言っていた。
そのときの彼女の横顔も夕陽に照らされていたような気がする。
もし誰かと誰かが、どちらともなく自然に手を繋ぎあるとしたら、その二人
は本物なのだと。
しかし、手をつなぐタイミングも、手をほどくタイミングも彼女が決めてい
ただけだった。
選択を迫られていたのはいつも彼女だ。我輩はそれにしたがっていただけだ
った。
星の出てきた空を眺めながらアゲハは我輩に尋ねた。
「夜、なに食べたいですか」
「君の好きなものでいい」
我輩はいまだになにも決められないでいるだけだ。
なかなかすばらしい夕食の後、アゲハはいつ帰るのか、明日の予定は何かあ
るか、などと基本的な質問をした。
思えば今日再開してから、会話を交わすよりもくちびるをくっつけあってい
る時間のほうが長かったのではないかと思った。
しゃべることから逃げていたのだ。
特に決めていない、何も予定はない、と我輩は答えた。
「先生、何しに来たの?」とアゲハは笑った。「君に会いに来た」と言葉を
かえしたらさらに笑って「そうね」と答えた。大真面目に。
テーブルの上の腕をひっぱって、またキスをする。まるでそれしかコミュニ
ケーションの手段を知らないかのように。
レストランを出て、何も言わずに我輩の部屋へ足をむけた。
我輩は部屋のソファに腰をおろす。アゲハも同じようにとなりに座った。
そして何も言わず我輩にもたれかかった。疲れたのか?、と聞くと無言で首
を横に弱く振った。
肯定を含む否定ではあったが、我輩はそれを無視した。
首筋にキスをする。よくわからないがくちびるにキスはしたくない気分だっ
た。
前中心のボタンを外していく、次に胸と腋のあいだにキスをする。彼女のミ
ュールはソファの下へ転がり落ちた。
彼女の首がのけぞる、我輩の背中には彼女の腕が置かれている。これは完璧
な肯定だと思った、彼女は軽く目を閉じて身を任せていた。
アゲハは我輩を膝立ちでまたいだ、見下ろされている。額にくちびるをつけ
られる。
一瞬、これは「さよなら」という意志をもったキスで、彼女はこのまま帰っ
ていってしまうのではないかと思った。
我輩がなかば力任せに引き剥がした服も、下着も我輩もすべておいて、この
まま裸で部屋を出て行くのだ。はだしのままで。
そういえばこの部屋に入ってから彼女の声を聞いていない。今だって聞こえ
るのはかすかなうめき声と吐息、呼吸の音だけだ。
それが嫌でアゲハの肩を押し、我輩の体の下に押し込みおおいかぶさる。彼
女は何も言わずに我輩の首に腕をまわした。
なぜそのときそう思ったのかはわからないが、そのあともアゲハは相変わら
ず部屋に、我輩の下にいた。
彼女の下着の上下はくいちがっていてちぐはぐだった。べつにそんなことは
普段も気にとめたりはしないのだが、今夜はいつも以上にどうでもよく思え
た。
スネイプは目を閉じる。目を開けていても見えるのは彼女の細い体毛ばかり
だからだ。
すこし汗をかいているアゲハの皮膚はかすかに塩味を感じる。
目を閉じていると、いま触れているものしか世界に存在しないかのような錯
覚に陥る。それならそれでいい。
シングルのベットはきっちりとベットメイクされていて、シワひとつなかっ
た。
彼女をコンフォーターの上に座らせるようにのせ、そのまま上半身を倒して
仰向けにさせる。
それからまたアゲハに覆い被さる。そして我々はシーツも、掛け布団もなに
も乱さずにセックスをするのだ。
それから二人ともシャワーをべつべつに浴びてだまって眠るのか。
一度倒した彼女を抱き起こした。
そしてコンフォーターと薄い掛け布団と毛布を引き剥がし、ひやりとした硬
いシーツの上に彼女をもう一度押し倒す。
彼女はただなすがままにしたがっていた。くちもとはかすかに頬笑みの形を
していた。
白いシーツの上に彼女の髪が広がる。そのうちの何本かは抜けて、このベッ
トにのこるだろう。
そしてそれを明日の朝我輩がみつけ、つまんでゴミ箱へ捨てる。
そんなことをぼんやりと考えながら彼女の肩に流れている髪を手ではらう。
そして今度はくちとくちでキスをする、そのキスが夜のはじまりだ。
少しのあいだ目を閉じていた。抱き合って寝ていたようで、アゲハの体をす
ぐに見つけることができた。
彼女は丸くなるように縮こまって寝ている。片手は我輩の横腹の上を横切っ
て背中にしがみついていた。
目線を落すと腕の中にアゲハの顔があった。彼女のまつげは、マスカラやら
何かでコーティングされていて黒く固くとがっていた。
それが無害なものだと知っていても、近くにいるだけで傷つけられそううに
見えた。
「泊まっていくだろう?」
我輩の横で目を閉じていた彼女はすこしあきれたように目を開ける。
まつげがある事によって見えていなかった下まぶたの目の際には、
涙で化粧がにじんだのか、それとも目を閉じて寝ていたからだろうか、
彼女がそこにあることを意図していないだろう黒い細かい点がいくつもつい
ていた。
なめたらどんな味がするのだろうかとすこし想像した。苦そうな印象を受け
る。
「シングルの部屋に二人でいると、怒られますよ」
「部屋を変えればいい」
「一緒に寝るんなら、どうして私の家じゃいけなかったの?」
……それは君の生活に入り込むのが怖かったからだ。取り返しのつかないこ
とになりそうで。
「べつに、ただ気が変わっただけだ」
そんなことを言えるわけがない。
「帰ります」
そう言って彼女はベットを出て、バスルームへ向かった。
歩いて行くときにのぞいたアゲハの内腿はぬれて光っていた。
きっと彼女は歯を磨いてうがいをする。手をあらって、石鹸をつけてあわ立
てたスポンジで我輩のすべての痕跡を消すのだ。
でも、赤い鬱血はけすことはできない。それに彼女はいらつくだろうか。
ドアの隙間から彼女が手櫛で髪をととのえていた。彼女は身体を洗ったりは
しなかった。
「家まで送る」
拾い集めた二人ぶんの衣服の半分を彼女に投げわたし、我輩も服を着る。
「タクシー使うから」べつにいいのに。とアゲハはつぶやくように言った。
外はもう夜中で暗く、明かりの点いている家は少なかった。
フロントでタクシーを呼び、ロビーのソファでしばらく待つ。アゲハは隣に
座りホテルの部屋に入ったばかりのように我輩に寄りかかる。目はとじてい
た。
アゲハの内腿はまだ濡れているのだろうか。ずっとそんなことを考えていた
。
「ねえ、」
不意にアゲハが我輩の耳もとに口をよせる。
「あのフロント、絶対私のことコールガールかなんかだと思ってる」
露骨に彼女は嫌悪の表情をあらわした、その額にキスをおとす。すこしだけ
アゲハはほほえんだ。
しかし完璧に教育されたフロントの男はこちらを盗み見たりはしない。
「それならば、このまま泊まればいいだろう」
「ちがう、最初から家に泊まれば……」よかったのに、と続けようとしたが
、ホテルの従業員が我々にタクシーがついたことを報告にきた。
我輩としてはいいタイミングだったように思えるが、たぶん彼女にとっては
不服だっただろう。
外は細かい雨が音もなく降っていて、霧のようだった。
タクシーのライトや街灯の光の中だけに雨粒を確認することができる。
アゲハはタクシーに乗り込み運転手に行き先を告げる。そのあとはずっと黙
って座っていた。
彼女は暗い外が見えずに鏡のようになっている窓を見ていた。すこしだけ町
の景色が透けて見えている。
「私の家で、お茶とか飲んでいく?」
「いいや、すぐに帰る。眠いんだ」
「明日は家にむかえに来てね」
「ああ」
我輩はタクシーから降りることなく彼女が無事に家にはいるのを見とどける
と、ホテルへもどるように指示した。
フロントの男は相変わらず無表情に職務を全うしていた。
部屋に戻り、コンフォーターをめくられたベットに手のひらで触れてシーツ
のシワをなぞる。もう熱は消えてすっかり冷え切っていた。
部屋付きの小さい冷蔵庫からろくにラベルを見ずに、とにかくアルコールの
含まれていそうなものをつかみ出しグラスも使わずに飲み下した。
そしてそのまま何もせずに眠った。夢も見なかった。