フローレンの金糸

 校内はバラの花で溢れていた。闇の防衛術の教師、ロックハートが独断で仰々しくハイパーデコラティブアンドギラギラに飾り立てたので、魔法薬学教師のスネイプは日に日に不機嫌になっていったが、同じくホグワーツの教師であるはそれなりに気に入っていた。
 花弁は廊下や教室や食堂などそこかしこにちらばり、水玉のようなドット模様を作っていた。靴の裏やローブの裾にできる染みには眉をひそめるが、それを含めても、バラの溢れる風景とは心躍るものだ。
 バラは言葉どおり、すべての幸せを凝縮したようなバラ色だった。霜の降りる朝も、冷たい風が吹きすさぶ昼も、雪の降る昼もバラの花は彩りを失わず、“例の日”への期待をより煽っていた。

 日、一日と浮き足立つ生徒達やその他を目に、スネイプは歪んだ心根を原動力に顔をしかめるが、それもまた悪くはないとは思っていた。スネイプがバラの花を目にするたびに、彼の頭の中では「バレンタイン」という単語を点滅させている。平たく単純に言えば、それは彼がバレンタインを意識しているという事になる。スネイプがバレンタインを意識している。これは、モーゼが海を割るくらい衝撃的な事だ。
 そんなある日、ロックハートは「クレオパトラは寝室に、足首が隠れるくらいバラの花を敷き詰めたそうだ」という伝説を、「マンガで読む偉人伝記」で発見したらしい。「ユーレイカ!」と彼が風呂の中で叫んだかどうかは知らないが、そこから勝手に衝撃インスピレーションインスパイアーを受けて、ホグワーツの廊下にも膝が隠れるくらいのバラの花を敷き詰めた。だから誰でもクレオパトラのようにモーゼのようにバラの花の海を掻き分けて進まなくてはいけない。
 うっかり眼鏡を落した生徒は、歎美なバラの海をバックに目を33にしてひざまずき、「メガネ、メガネ」とつぶやきながら、メガネ捜索をしなければいけないし、猫もネズミもフィットウィリックもバラに押しつぶされて窒息寸前だし、ハウスエルフはバラの花陰でドンジャラホイ。
 それで、これは風流だけど不便だとダンブルドアが一瞬にしてバラを消し去った。ロックハートは美しく目に涙をためていたが、心のうちでは安堵していただろう。その証拠に、膝元まで溢れるバラの大群と対面した彼はすこし青ざめていた。ロックハートは足首までのバラを出現させたかったに違いない。彼の美しい足が半分も隠れてしまうなんて、きっと誰も望んでいないだろうから。



 そしてバレンタイン当日の夜、スネイプの部屋でなかば眠りかけていたは、スネイプの様子が少しおかしい事に気が付いた。彼はベットの上で足を伸ばし、ヘッドボードと積まれたマクラに背中を預けて、ゆったりと本を読んでいるのにもかかわらず、重く厚いローブを脱いでいなかった。
 それを気にしてスネイプを訝しげなし線で眺めていると、彼はすぐに彼女の視線に気が付いた。せまいベッドの上では、忍んで見るほどの距離はありえなく、またも隠密に探ろうとは考えてはいなくて、むしろスネイプのローブを早く暴きたかったのだ。
 スネイプは本のページから目を上げ、少し迷うようにまた目を本へ落し、ゆっくりまぶたを閉じてまた開けて、本を閉じて傍らに置き、あきらめたようにを見た。

「金属アレルギーは?」
 スネイプはかすかに語尾を上げて訊ねた。
「ないわ」は期待を込めた口調で即座に答えた。「アクセサリーなの?」
 スネイプはぞんざいな手つきでローブの襞に手を入れ、ポケットから小さな透明な袋を取り出した。は期待を込めた目でその動作を眺めていたが、取り出された小ぶりのビニール袋を見て、困惑の表情をあらわした。その袋はまるで、薬のカプセルを小分けするような実用性に溢れていた。とても中に心躍りロマンス溢れるプレゼントが入っているとは思えない。
 スネイプは彼女の表情の変化を気にせずに、しかし彼女の目から視線を外すことなく、ビニールの袋の口を開いた。そして指を入れて、細い金色の鎖をつまみ出した。

 すこしピンクがかった金の鎖は繊細な小さな輪が連なっていて、その細さは木綿の糸ほどしかなかった。そのあまりにも細い金の鎖は、たったいままで液体であったような、ほんのさっき固まったばかりのように、とろりとした光沢を放っていた。
 不注意で体を絞めてしまわぬように端から五分の一ほどの位置にいっそう細く弱く作られた輪があったが、それ以外はすらりと一直線に編まれていて、留め金すら細い針のようになっているだけだった。
 

 はビニールの袋から不意に出てきた光の筋のような鎖から目を離すことができず、スネイプの手の中でさらさらと音を立てて擦れている金色の糸を見ていた。

「気に入ったか?」
 スネイプは息を細く吐くように笑うと、彼女自身の膝の上に臥せるように置かれたの手の甲に金の鎖を乗せた。少し手を身じろがせるだけでも鎖は落ちてしまうのではないか、とは不安がり手を少しも動かさなかった。しかし鎖は彼女の腕の内の血管の流れすら受け止め、光を複雑な方向に反射させた。ピンクゴールドの鎖は肌の色とほとんど同化し、両者の差は、鋭く光を放つか、やわらかく光を吸収するかの違いだけだった。

「留めてくれる?」
 はつとめて平静に声が響くように祈りながら、スネイプを見あげた。しかしスネイプは金の鎖をの甲から拾い上げる。
「留めないの?」
 が不思議そうにつぶやくと、スネイプは口の端を歪めるように少しだけ笑い、何の変哲もない平坦な声で言った。
「これは、足首用なんだ」

 スネイプはベットの足元の方へ移動するとあぐらをかいて座り、と対面した。彼女は膝を立てて座っていたので、二人の距離は思ったよりも近く、ベットの下半分のスプリングは使われること無く、伸びも縮みもせずに、ただそこに存在していた。
 彼女の服の裾から手を入れ、一瞬迷った後、太腿の前側と裏側に吊られている2本のベルトの留め金を探し当て、外した。まるで映画中に存在するフランス女の娼婦のようだ。とスネイプは腹の中で笑ったが、彼女は常時このようなガーターベルトを好んでいるわけではない。かすかな季節感を感じ、スネイプは先ほどとは別の意味で薄く笑った。しかし、下を向いていたので、からはスネイプの表情が見えなかった。でスネイプの肩や首の後ろに手を置こうか置くまいか悩んでいたが、結局腕を動かす事はしなかった。
 両手で足を挟むように撫でながらストッキングをするするとすべらし、ベットの下へ投げるように捨てた。丸まった薄皮のような残骸は絨毯の上で、品無く静かに床のたたずんでいた。の目は用意した季節感を名残惜しげに見たが、彼女の脳はそれよりも金の鎖の行方を気にしていた。
 スネイプは彼女の剥き出しになった足首を掴み、膝を折るようにして、手のひらの上に収まる小ささのかかとを自身の膝の上に置くと、足首に金の鎖を捲いた。
 鎖は細く軽く、足首の上で重さを感じる事はむずかしかった。しかし、存在感は囚人がつけるような鉛球のついた鉄の鎖よりも強く重かった。

「それ、どうやって留めるの?」
 スネイプは鎖の先端の針の部分をもう片方の端の鎖に通し、針を指で曲げて留めると、杖を取り出して鎖に当てた。が警戒を含んだ目でスネイプを見ると、彼は足首を掴んだまま、の目から表情と反応を読み取ろうとした。
「溶接するんだ。針になっている先を鎖の端の輪の中に入れ、熱を加える」
「火傷しない?」
「一瞬だ」
「外すときは?」
「手で引っ張るか、ハサミで切れば簡単に千切れる」
「外すには、壊すのね」
「留める前から外す事を考えるのか」
「別に、着けたくないって言ってるわけじゃないわ」
「これはお前にやったんだから、気に入らなければ、壊すなり千切るなり好きにすればいい」
 スネイプはかすかに笑うと、鎖の繋ぎ目に当てた杖の先を赤く光らせた。は想像以上の熱に顔をしかめるが、とくに避けるような様子は見せず、スネイプの動作を眺めていた。スネイプは赤くなっているの肌を治療する目的でもう一度杖を当てると、火傷も痛みも跡形無く消えた。
 スネイプは心成しか満足げな表情での足首を解放し、彼女の足には金の鎖だけが残った。
 スネイプの肩の黒く重いローブはベットから床にすべり落ち、フランス娼婦の抜け殻の上に重なった。



 それから数日立つが、ぴったりと足首に捲かれている鎖は重さも無く、細い為に感触もなくなっていった。
 鎖とともに目覚める最初の朝から数時間は鎖が気になったが、すぐに慣れた。
 普段はストッキングで足を包む為、いっそう足に固定されて動く事も無い。日中の生活では、鎖の事を気にかけることはほとんどないだろうと思っていた。
 しかし、意識はしないものの、常に薄いナイロンの膜によって足に押し付けられている鎖は存在しているのだ。
 毎朝起きて身支度をするときに、ストッキングをつま先からふくらはぎへ引っ張り上げる最、両手の親指の外側に、明らかに皮膚と違う感触を感じるのだ。
 そして、光の加減により、かすかに編目の隙間から金色の光の粒子が漏れることもある。しかし、ほとんどの場合は肌色に同化して、ただの足首の皺に見えてしまう。
 シャワーを浴びて体を洗う時、靴を履く時、不意に先から金属の感触が脳に伝わる時、の思考はバラの溢れるバレンタインの夜で埋まるのだ。そしてスネイプが足首に触る時、鎖はもっとも重く意識を奪う。まったくもって、スネイプらしい手際のよさと陰湿さの詰まった鎖である。
 バラ色に輝く鎖は、今日も彼女を強制的にバレンタインの日に留めていた。
 は幸いにも、バラは嫌いではなかった。














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ムーミンのフローレン(ノンノン)のアンクレットを見て思いついたなんて、言えない。
それにしても「ストッキング」という語感のまぬけさはどうしたもんか。ねえ。

2005/8/22