夜
zoo keeper
「ねえ、」
スネイプはデスクの上の羊皮紙の束に目を落としている。少し離れたソファーに座ってそれを眺めていたが胡乱な表情で呼んだ。しかしスネイプは相変わらず羊皮紙の束を指で手繰っている。はスネイプの反応を待って言葉を宙に浮かせていたが、彼は何も言わずに真面目な顔で仕事をしている。
「スネイプ」
少し強く名前を呼ぶと、ようやく彼の首がかすかに捻られた。それを見て、不満ながらも口を開こうとしたが、あまりにも長い間言葉を止めていたので、何を言おうとしていたのか忘れてしまった。すこしのあいだ口を開いたり閉じたり目を閉じたり開いたりして何を発言しようか考えていたが、スネイプはそのの不審な動作に気を留めることなく手を動かしつづけていた。
「私をケモノのように犯してみる気はありませんかね」
それでが適当な事を言ってみると、スネイプは顔を上げて一瞬ぎょっとしたように眉を歪めるが、すぐにあきれたように視線を伏せた。目はすでに生徒の回答を追っていて、手元の羽ペンは止まることなく一定のスピードで採点をつづけていた。
「セブルス、せめてこっち見なさいよ」
はつまらなそうに目を閉じる。
「残念ながら我輩、忙しいのでな」
インク壺のフタを指で跳ね開けてスネイプは言った。しかし口調はのんびりとしていて、てきぱきとした仕事振りとは大違いだとは忍んで笑った。
「私達、学校に住み込んで働いてるのよね」
「……自分の寝ている場所も把握できていなかったのか?」
「うーん、そこまで私も酷くないわよ」
「そうか、それでは住み込みの労働者らしく働いたらどうだね」
「セブルス、1日9時間だけを学校に身売りしてると思いなさいよ。それ以上の時間まで仕事の事を考えるのは、慈善事業だわ」
「……慈善事業とは、ホグワーツが君を雇ったままでいるということも、含まれるのかね?」
「なかなか酷いこと言うのね」
ぽつりと言っきりは静かになった。
「当然だ」とスネイプは言うつもりでいたのに、あまりにも彼女の声が小さく響いたので、機会を失ってしまった。タイミングを逃した言葉は脳の膨大な情報量の中を不安定に浮いたり沈んだりしている。
窺うように彼女の顔を覗いてみると、彼女はなにか思慮深そうに黙っていた。スネイプは何か声をかけるべきか、しかしなぜ我輩が彼女に気を使う必要があるのかとかってに理不尽な気分になって迷っていた。
不可解で理不尽といえば、なぜ彼女は当然のように我輩の部屋に帰ってくるのか。
今夜はそうではないが、夕食の席を立つタイミングまで合わせようとする。彼女が先に食事を終えれば待っているし、我輩が先に終えれば待っていろと引き止める。ホールから出ればかならず後をついてきて、当然のように我輩のベットで眠る。
そうかと思えば一日顔を見せない日もある。好きなときに現れて飽きたら帰って行くのだ。
ネコを手懐けることに関しては過剰に気を使うくせに、我輩への気配りはまったく感じられない。
しかし、後になって思い返せば憤りを憶えるものの、その場ではなんの違和感も感じない。もし疑問を感じても憤りを感じることはあっても怒りを感じることはない。本来ならば我輩、もっと怒ってもいいはずではないか。
今朝から彼女が我輩に与えたことを思い出してみると、まず理不尽にベットの上どころか体の上にのしかかることによって身体の自由を奪われ、そして理不尽に怒られ、さらに理不尽に物品を恐喝された。
しかし彼女がそれら(それは品物だったり行為だったり厚意だったり好意だったり)を求めれば差し出してやらなければという気になってしまう。それが彼女の恵まれている才能であり、処世術であり、忌むべき手口なのだ。
「……でも私、あなたに罵られるのに慣れちゃって、もう何にも感じなくなってきたわ」
いままでの無言の時をまったく感じさせないように、は自然に口を開いた。予想を裏切る声の温度に、気が抜けたスネイプは、ムダに杞憂してしまったことを後悔し、うんざりとした。
「あなたの罵りの言葉には、しっかり愛がこもってるって知ってるからね」
スネイプはあからさまに嫌な顔をする。
「おまえ頭がおかしくなったんじゃないか?」
「頭の中に花畑でもできたかしら」
ひょうひょうと言ってのけるに飽きれながらもスネイプは手を止めず、顔も上げずに平坦に言った。
「おまえの頭は花畑なんてものじゃないな」
「植物園?」
いまいましげな顔をしているスネイプとは違い、は楽しそうに自分の爪のささくれをいじっていた。
「いや、動物園もあるだろう、その調子では」
「入場料とれると思う?」
「さあな」
スネイプは面倒そうに短く答えた。
「忙しいって言ってても、私の冗談に付き合ってくれるスネイプが好きよ」
スネイプは目と目の間を指で押して息を吐いた。
「そういえば夕食の時ホールにいなかったけど、どうして?」
あいかわらずはのんびりとしていて、こちらの都合などまるで考えずにくつろいでいる。
「部屋に運ばせた。今夜中に済ませておきたいことがある」
スネイプははデスクの隅に置かれている木製のスプーンの刺さった陶器のボールを指した。カフェオレボールぐらいの大きさの外周の内側にはクリームソースのようなものが少しだけ残っていた。ほかに食器はない。
「……食べたのそれだけ?」
「そうだ」
「なに食べたの?」
「イモと鳥を煮たやつ」
「野菜は?」
「イモ」
「それ以外は?」
「イモは野菜ではないのか?」
「あんまり野菜っぽくないわ」
「では、イモは何だ」
「スネイプ、とにかく肉も野菜もバランスよく食べて栄養とらないと」
「おまえ、おせっかいな母親みたいだな」
スネイプはせせら笑った。デスクの上の羊皮紙を見つめていたはずの目も、今は顔を上げの方を見ている。
「マイケルジャクソンになっちゃうわよ」
「は?」
スネイプは動きを止めて、思わずのほうを向く。はスネイプと目があうと、得意げに笑った。
「食生活が乱れて、不健康になって、マイケルジャクソンみたいになるわよ」
「それでは……」
スネイプは羽ペンを宙にうかせて虚無の空間を仰ぎ見た。「我輩はマイケルジャクソンよりも上ということだな」
は息を吐くように笑う。「どうして」
「おまえが“なってしまう”と言ったからな。なってしまう、ということはあまり望ましくないということだろう」
「なるほどね」
「だから、おまえはポップスター以上の男に……」
スネイプはそこで言いかけてしまった言葉を止めた。はすでにそれを理解したようで、すこし驚いたような顔で笑っていた。スネイプはばつのわるそうな顔でまだ言葉を止めたままにしていた。
「……罵られる事を光栄に思え」
スネイプはそれだけ言うと、デスクの上にまた目を戻した。は黙っていた。この女はどんなに思慮深げな顔をしていても、頭の中で練っているのはどうせくだらない冗談ばかりだとは思うものの、スネイプは少し顔を上げてソファを見る。
ところがはソファの上にはもういなくなっていて、気が付くと背後に立ってスネイプの両肩に手を添えていた。一瞬労わるように頬を触ったかと思うと、それをすべらせて椅子に手をかける。
そして背もたれを掴んで椅子を後ろに引いた。スネイプ乗せた重い椅子が簡単に動くとはもスネイプも思っていなかったが、思いのほか容易に椅子は後退した。意外と紳士なスネイプが密かに足で床を押して協力したのだと気付き、は笑った。
スネイプの体とデスクの間には空間が空いていた。デスクの上の書類に手が届かないので、するべき事を妨害されているスネイプは手に羽ペンを持ったままを批判めいた目で見あげていた。
はスネイプとデスクの間に滑り込み、そのままスネイプの膝の上に落ち着いた。2人分の体重をうけた椅子が軋んだ。の細い喉から押し殺したような笑いと息が漏れた。
喉元に彼女の後頭部が触れる。スネイプはの髪を1房持ち上げた。それは湿って束になっていて重く、離すとぱたりと音をたてて肩に落ちた。その水分を含んだ髪の重さが手に心地良く、スネイプは2、3度髪を持ち上げては離すという事を遊ぶように繰り返した。はスネイプから少し体を離し、肩に当たる髪をくすぐったそうに払って背中に流すと、スネイプを見た。
スネイプはを見下ろす。部屋を入っていた時には頬紅を微かに塗ったように上気した頬と、赤いくちびるを見た。これは風呂を浴びた後だろうな、と思ったことを憶えている。
デスクの上に集中していたはずだが、そのようなことを気付いて記憶に留めてていることにいささか自分でもおどろいた。その肌も今は赤みを失っているどころか、暗く寒い部屋の中では白んで見える。
スネイプに見られたままはじっとしていた。
「だから、その罵りに愛が含まれてるっていうのよ」
はそう言って笑うと目を閉じて、スネイプの長くて分量のあるローブの襞に腕を差し入れるようにスネイプの体を抱いた。
ちょうど目の前にスネイプの喉仏がみえた。スネイプは前を見たままで何も気に留めていないふうを装っているが、彼の固そうな喉仏がかすかに上下したのを見て、はまた笑い、それに口付けた。
「もちろん私も、あなたが私を愛してるのとおなじくらい愛してるわ」
は喉仏にくちびるをつけたまましゃべったので、細かな振動がスネイプの喉にも伝わった。首に触る彼女の指先は冷たいのに、喉に触るきちびるはあたたかく湿っていた。言葉の一音一音を彼女が発するたびにくちびるは形を変えた。固いはずの歯はまったく感じられず、そこにはただくちびると舌と歯茎だけがあるような気さえする。
言い終わると彼女は舌を出し、喉仏にそっと押し付けてすぐに離し、また口を閉じて首元に顔をうめた。
スネイプは彼女に悟られないように笑うと、が落ちないように彼女の背中に手を当てて前屈みになり、引出しを開けて羽ペンをしまう。首にかかるの息で、彼女が笑っているのがわかる。そして椅子を少しだけデスクに寄せると、インク壷の蓋を閉めた。
2005/5/29