LONDONcalling to the faraway towns



 我輩は睡眠中である。まだ起床時間ではない。
 ……平穏に誰にも邪魔される事なく眠りたい。これは全人類共通の願いだと言っても良いと思う(睡眠を妨げられたいと言う性癖の変態は黙殺させていただこう)。できれば冬眠中のクマのように、必要最小限の寝返りと寝息で平和に平凡に眠っていたい。
 ところが、我輩の眠りを妨げる者が現れた。それは深夜1時のベットルームに突如現れ、ようやくベットに入ることのできた我輩の眠気をみごとに覚ませてしまった。そのまま無視して寝てやろうかと思ったが、赤々と燃える暖炉の横で眠れるような神経を、残念ながら我輩は持ち合わせていない。
 しかたなくベットを降りて室内履きをなるべくゆっくりと履き、ガウンをものすごくゆっくり羽織り、3歩進んで2歩下がるくらいの速度で暖炉へ向かった。

 暖炉には予想通り、赤い炎の中では上半身を暖炉からつきだし、床に腹ばいになり背を反らせ頬杖をついてこちらの様子を窺っていた。まるで浜に打ち上げられたアザラシか、芸をしているオットセイのような格好だ。
「こんばんは、スネイプ」
「なにが“こんばんは”だ。今、何時だと思ってる」
「午後9時よ。最高の夜ね。月がきれいだわ」
「……そうだ。忘れてた。おまえは今」
「今はアメリカ。これはイギリス大使館魔法使い課の国際回炉を使ってるの」
「そうだった。おまえの存在ごと忘れてたからまったく頭になかった。の事など完璧に記憶から抹消されていた……いや、これは独り言だ。気にしないでくれたまえ」
「過度の独り言と物忘れは鬱の初期症状よ、スネイプ」
「うるさい」
「それとも老化?」
「だまれ」
 我輩は鬱ではないし、健忘症でもないし、痴呆でもない。けして忘れていたわけではないが、は出張のため2週間ほどホグワーツを留守にしていた。そういえばそろそろ帰ってくるころだとは思っていたが、まさか深夜の暖炉の前で再開するとは思わなかった。
「で? わざわざ時差を考えずに暖炉から生えてきた用件は」
「私暖炉に首を突っ込むのって好きじゃないのよね。灰で咳き込むし。ハチミツを食べ過ぎてウサギの家に詰まったクマみたいな気分よ」
「違う、なぜ暖炉から生えているかではなく、なんの用件かと聞いているんだ」
「明日帰るの。あー、……グリニッジ天文台標準時間で考えると今日ね」
「計算して頂いて感謝する。しかし、そのまま暖炉で飛んでくればいいのでは?」
「私、ヒースローに帰るの。迎えにきてくれるでしょ?」
 ヒースロー。いまはたしかにそう言った。
「マグルの飛行機で? なぜそんな面倒なことを」
「だって機内じゃ食事が出て映画も見れるって話じゃない」
「それがどうした」
「あの質量の中に映画館とレストランがあるのよ。マグルの空間圧縮技術もなかなかのものね」
「……それは」
「なによ」
「なんでもない」
 我輩は言いかけてやめた。いいさ、こんな奴。自分の思い違いに気付かずに、マグルに囲まれて無知を露呈すればいい。
「知ってるか。飛行機に入るときには靴をぬぐんだ。恥をかくなよ」
「それって、コーラで洗えば大丈夫っていうのと同じくらい信じられないわ」
「下品だ。そのようなアメリカかぶれの奴は生徒達へ悪影響があるゆえ、ホグワーツに帰ってこなくてよろしい」
「私、あなたの事を考えるだけで中指がふやけてしょうがないわ」
 我輩が絶句すると、彼女は急に鋭い声を出す。
「あなたが嘘つくのが悪いのよ」
「人のせいにするな」
「ねぇ、スネイプ。あなた私と久しぶりにしゃべれて楽しいんでしょ」
「いいや、眠くてたまらん」
「私、好意と悪意を勘違いするほど鈍感じゃないもの」
「時差を考えられない奴は愚鈍に決まってる」
「言ったでしょ。私、勘違いしないって。そんなこと言ってもムダだから」
「おまえなんか、エリア51から飛んでくればいいんだ」
 そう言って、なるべく乱暴に見えるように暖炉の火を消した。そして膝についた灰をはらっているときに、重要な事に気がついた。航空会社も到着時間も確認しなかったことに。くだらないことばかり言い合って、重要な事を聞き忘れてしまった。
 こちらから連絡を取ろうにも、相手の暖炉も場所もわからない。それには、そんなことを言い忘れたということにすら気付かないだろう。そのあたりの詰めの甘さが彼女の欠点というか、玉に瑕というか、玉に致命傷なのだ。
 大使館がある都市といえば、首都だろう。それならダレス空港だな。寝て起きて朝食を食べチェックアウトして移動に1時間くらいかけて、チェックインに2時間かかるとして……機内で映画を1本か2本見て……少し眠って……4,5時間か6,7時間と言うところだろう。ヒースローに着くのは午後だろうな。 少なくとも、これから一眠りして、ダンブルドアに休勤願いを出して、自習用の問題集を作る時間くらいはあるだろうな。しかし、こんなに不安定な予定時間の組み方は初めてだ。






 ホグワーツから列車でキングクロスまで。それから地下鉄に乗り換えてパディントンへ。さらにエクスプレスに乗りヒースローへ15分。ホグワーツから離れれば離れるほど、人が多くなる。
 ヒースローのターミナルには相変わらず深緑に金のロゴのハロッズの紙袋やら免税店の紙袋やらを抱えた日本人(や自称日本人を多く含むアジア系)観光客が、構内アナウンスを一言も聞き逃すまいと緊張した表情で有象無象右往左往としていた。
 高い天井からぶらさがっている電光掲示板でワシントンDCダレス国際空港(空港コード IAD )からの飛行機の到着時間を確かめる。そういえばそこは、ダイハード2の設定航空だったな。ダイハードシリーズは数あるアメリカ映画の中でアメリカ映画的アメリカ映画に分類されて、続編である2は例に漏れず1よりも劣る。1はテロリストが……いや、なんでもない。我輩、アメリカ映画には詳しくない。
 とにかく、そこからの最初の便までまだ時間があったので、適当な喫茶店で待つことにした。

 喫茶店のまずいデニッシュと紅茶を啜りながらぼんやりとターミナルを見渡す。空港だけあって、行き交う人々の荷物は重そうで数多く運ぶのに苦労していた。しかし表情は皆豊かだった。
 荷物。の荷物も数多く、そして色彩豊かだった。

 の出張は、名目では学園での教材の買い付けということだが、ほとんど彼女の私用の買い物ばかりだった。
 学園へ毎朝届けられる荷物の整理は普段フィルチが行うのだが、最近はフクロウの繁殖期のせいか、フクロウ小屋の管理で忙しいのだと言う。しかたがないので、我輩が贈られてくる荷物の整理作業をすることになった。
 大量の荷物は包装紙も切手もそれぞれの国の特色があった。郵送先所在地を記すインクの色もさまざまだったが、そこに鎮座している癖のある字はかわらずに彼女のものだった。
 荷を解くと、かすかにそれぞれの国の空気の匂いを感じるような気さえした。

 はトルコでは空飛ぶ絨毯を買い、香油を買い、ラピスラズリの塊を買った。西アフリカではフォン族からグーグードールズを買った。
 彼女が荷物に記す送り先はどれも変わらずホグワーツだったが、指定する受取人の指定はさまざまだった。
 ほとんどは自身の個人的な戦利品だったが、学園教材室宛てのものや、買い物を頼まれた教師達への荷物もあった。
 ちなみに彼女が購入して学園宛てに送りつけた大量の品物のうち、ダンブルドアに頼まれたものといえば、インドの真鍮のシヴァ彫像とトルコの絨毯だけだ。

 そしてその荷物の群れの中には、我輩に宛てたものも2,3あった。
 ほとんどはくらだないもので、アメリカからはウィッシュドールとS・キング原作のドリームキャッチャーのペーパーブックとDVDが我輩宛てに送られてきた。これはたぶん彼女なりの冗談のつもりなのだろう。この銀色のディスクの使い方を、我輩は知らない。
 アラブでは、偉い坊さんから貰ったという怪しげなコーヒー豆を送ってきた。なんでもそのコーヒーを飲むば、たちまち陽気な気分になりコンガマラカス楽しいルンバのリズムだそうだ。しかしその豆はまったくの粗悪品で、白い細かいさらさらとした非常にケミカルな粉末がまぶしてあった。危険な気配を感じて飲まずに捨てた。たぶん廃棄したことについて彼女は怒るだろうが、我輩にも自身の健康を守る権利ぐらいあるだろう。


 が自ら持ち帰ってくる荷物も多種多様で多いのだろうか。そう考えながら、帰りもマグル式に地下鉄で帰らなければならないのかと、気が滅入った。しかし、ロンドンのどこかで食事して帰るのは良いかもしれないとも思った。
 ところが、待てど暮らせどが現れない。我輩がヒースローに着いてから、ワシントン発の飛行機は3便ほど到着しているが、そのどれにもは乗っていなかった。
 我輩は到着ロビーとターミナルの喫茶店を何度も往復し、喫茶店とも本屋とも顔見知りになってしまった。

 もうすでに4冊のペーパーブックと2冊の雑誌と1部の新聞を読み終えた。本屋の店員は非常に愛想がよく、過剰におせっかいだった。 1冊目の歴史小説を買った1時間後、2冊目に薄い短編小説集を買うと親愛のこもった目で見られ、さらに30分後3冊目に実用書を買うと好奇の目で見られ、そしてさらに1時間後4冊目の小説を買うと、同情を込めた目で見られた。サービスで本の上にそっとマーズチョコレートを置いてくる始末だ。我輩、人からの無償の親切や博愛精神を信じられないので、うんざりするしかない。
 別のキオスクに毛の生えたような本屋に行くと、そこには雑誌や新聞しか置いていなかった。しかも半分はポルノ雑誌だった。あれは見るものじゃない、やるものだ。
 サハラ砂漠の中で石の粒を探すほどの労力をもって、読むに価する雑誌を探すのは手間だった。ようやくみつけたタイム誌とニュートン誌を手に喫茶店へ落ち着くが、それでもの乗った飛行機は到着しなかった。

 当初はそれなりにおもしろく見えたマグルの群れも、今では3種類に分類されるばかりである。楽しそうな顔をしていて荷物の多い者はこれから出発する旅行者で、疲れた顔をしている荷物の多いものは帰ってきた者である。活気のある顔をしている荷物の少ない者は出迎えだ。堅苦しい服装をして暗い顔をしている荷物の少ないものは仕事での短距離飛行か。我輩はどこに分類されるのだろうか。

 の乗っていない4便目の飛行機の到着後、おもしろい事が一つだけあった。
 あまりにもヒマだったので、ターミナル内をふらふらと歩いていると、小規模なゲームセンターがあった。そこでネオナチ風ハードコア系スキンヘッドの団体がイカサマをして狂ったように笑い転げていた。人間あそこまで低脳になれば憂いることなく人生おもしろおかしく過ごせるのだろうか。ピアスホールの口径の大きさだけで力を競う世界は、どんな楽しみがあるのだろうか。うらやましく眺めていたが、すぐに警備員に連れて行かれてしまった。
 そうして我輩はまたひとつ娯楽を失った。

 外はすでに暗くなり、雨まで降り出していた。ガラスは曇り、外の風景が見えなくなる。滑走路が走っているだけの見飽きた光景も、見えなくなると惜しくさらに退屈になるものなのだな。いまはもう水滴がつたうくらいしか見るところがない。
 マグルの新聞を株価まで隅々眺めていると、本日最終のワシントン・ヒースロー便が到着したというアナウンスが聞こえた。最終。我輩は仕事を放棄してまで1日をムダに過ごしてしまった。これでが来なかったら、もう二度と迎えになど来るものか。我輩は飲みかけの冷めた紅茶を残し、4冊の本と2冊の雑誌と新聞を持って行こうかどうか悩み、結局全部持って店を出た。

 



 1日中眺めていたせいで、すっかり見慣れたものになっている自動スライドガラスドアの向こうからがやってきた。いっそのことがここで現れなければ、とも思ったが、彼女はいつも許容範囲ぎりぎりのラインを選ぶ才能があるらしい。
 せめてもの報復として、我輩は到着ロビーの隅のほうの壁に寄りかかり、しばらく彼女を観察していた。は中型のボストンバッグを片手にぶらさげ、疲れた顔をしていた。映画館とレストランを期待していたにもかかわらず、窮屈な座席に押し込められていたのだからしかたがない。慣れない環境の中にいると、たとえ座っているだけでも、とても体力やその他の精神力がそぎ取られてしまうのだ。
 は立ち止まってロビーを端から端まで眺めるが、我輩を見つけられない。疲労とはすべての感覚を磨耗させるのだ。彼女は窓の外を見た。強く振る雨を見て溜め息をついたに違いない。この広い空港内での傘の捜し方を、はきっと知らない。

 考えるよりも先に体が動いてしまった。もう少し観察しているつもりだったが、どうにも見るに耐えない。ロビーを横切るようにのほうへ近づいていくと、彼女は申し訳なさそうな表情で複雑に笑った。その顔は少し日に焼けていて、鼻の頭と頬が赤くなっていた。
 我輩の頬に無遠慮に押し付けられた彼女の唇は、表面はつややかに石油製の化粧品が塗ってあったものの、機内の乾燥した空気のせいかすこし荒れていた。その硬く浮いた皮膚をカバーするために厚めに塗られた油性の流動体は我輩の顔に残り、はそれを苦笑しながら指で拭った。
「コーヒーは捨てた」と我輩が言うと彼女は、「ヤギみたい。童謡の中に出てくる白と黒の」と言って笑ったが、その意味は理解できなかった。





「この小さなテーブル! ヨーロッパに戻ってきたって気分になるわね」
 1日ですっかり常連客になってしまった喫茶店では、店員が握手でも求めてきそうな表情で歓迎してくれた。そして2つの紅茶のソーサーにそれぞれハーシーチョコレートが乗っていた。なぜ好意とは、いつもチョコレートに変換されるのだろうか。それが空港の法則なのか?
「アメリカ人はなんでも大きければ良いと思っているから気に食わん」
 は小さいテーブルの下に脚を押し込めようとはせず、腰をひねって下半身を斜めに背骨に悪い座り方をしていた。バックからピルケースか何かを取り出そうとしていたが、それは手から落ち、テーブルとテーブルの間の狭い通路に転がった。はそれをいまいましそうな目でその光景を見ていた。
「拾って」
「なんだって?」
「イギリスは紳士の国でしょ?」
「淑女の国でもあるが、アメリカ帰りのおまえに言ってもムダだろうな」
「そうよ、拾わなかったら、訴訟を起こすわ」
 しかたなくトレイをテーブルの上に置き、かがんで床に転がっているピルケースを拾う。すると、のかすかに光沢のある薄いナイロンの繊維に包まれた脚が目に入った。彼女は脚を組んでいたので、ふくらはぎの内側が通路側に向いている。その足首から上に走る長細い亀裂が目に付いた。彼女は気付いていないのだろう。どこかに引っ掛けたらしい。
「伝線している」
「どこ?」
 は首をひねり、脚を確認しようとしているが、目は足首に当てられている我輩の指先を見ている。
「……履き替えなくちゃ」
 立ち上がるついでにその1mmほど筋のように露出している肌を指先で下から上になぞる。人差し指から薬指までの指紋の溝に潜ませたこの思惑に彼女は気付くだろうか。
「どこで?」

 の目線が指先から、一瞬迷うように臥せられ、そして我輩の目へ移る。
 もう1日帰るのが遅れたとしても、しかたないだろう。我々はあまりにも疲れすぎていて休息が必要なのだ。
 


















------------------------------
2005/6/12