夜行性スパイダー

夜行性スパイダー




ほつれている。
カフスのボタンを外すと、スリットの縫い合わせの部分が広がっていた。細い隙間にハシゴのように白い糸が渡っている様子が見える。判断を先延ばしにして視線を逸らしたが、結局は首元のボタンを外した。

シャワーを使い、ソファの背もたれに放置されていたシャツを改めて見分する。
脱ぐ際に指にでも引っかけてしまったのか、ほつれはさらに広がっていた。
意識せずに眉間に皺が寄る。
杖を一振りするだけで解決する問題ではあるが、どうせ衣類など消耗品だ、処分してしまってもいい。しかし、戯れに手ずから補修をしたい気分だった。
単調で臨まない雑務にまみれた日々を送っていると、幾ばくかの達成感が必要になるものだ。
……針と糸くらい、どこかにあるだろう。無ければそれでいい。

「アクシオ、針と糸」
試しに口の中だけで呟いてみると、思いがけず部屋の中央で物音がした。
何かがデスクの引き出しの中で活発に動いている。
……どんなに整理していても、どこかしらに「使わないが、捨てる理由の無い物」の吹きだまりのような個所があるものだ。
デスクを探ると、右下の一番奥の引き出しにマッチ箱ほどの大きさの紙のケースに入った裁縫道具があった。小さい包みながらもご立派に数色の糸と針が入っている。どこかのアメニティをが持ち帰ろうと我輩の荷物に入れてそのまま紛れていた物だろう。
手のひらに乗っているソーイングセットを眺め、ため息をつく。
決心をつけてソファに腰を下ろし、針と白い糸を抜き出した。
ついでにスタンドライトをアクシオしてソファの前のローテーブルに置いた。

綿らしき糸は少しの毛羽立ちを見せていた。
別段苦労無く針の穴に糸を通したが、糸の端に結び玉を作る事には多少の労力を要した。シャツを裏返してほつれている個所を観察する。縫うべき部分を定めて針を刺した。
複雑な形の衣服でも、要は平面を折って縫いつけて立体にしただけである。縫い目とは常に一本の直線に過ぎない。……大抵の場合においては。

幸い、袖の空き口はそれほど多重な構造ではなく、ほどけてしまった2インチばかりを縫い進めれば完了しそうである。
意気揚々と3針目に進もうとしたところで、ノックも無く無粋に扉が開かれた。
苦い顔をして戸口を見ると、悪びれもしないがこちらへ向かって来た。

「こんばんは、セブルス。ひさしぶり」
「……ひさしぶりとは?」
「えー、そう。12時間ぶりくらい?」
「そうか、良かったな」
「届け物よ。魔法薬学の学生世界大会の参加申し込み用紙」
「それは捨てた」
「どうして?」
「ホグワーツの生徒どもの恥を世間にさらすだけだ」
「とにかく、置いて行くから」
「ああ、そこにゴミ入れがある」
は眉をしかめて笑うという器用な表情を作ってデスクに書類の束を置いた。
意味の無い会話を打ち切り、手元に視線を戻す。
白い布に白い糸に銀の針はハレーションを起こしていて集中して見る事に骨が折れた。こめかみが鈍く痛む。


は我輩と並ぶようにソファに腰をかけると、行儀悪く脚を座面に乗せる。肘かけに背をもたれてこちらを向くと、我輩の膝の上に脚を投げだした。
「縫い物?」
「やめろ。針が危ない」
「信用してるから大丈夫」
薄く透明感のある生地に包まれた脚が我輩の腿上で身じろぐたびに気が散って針を刺し損ないそうで苛立たしい。
一度足首を掴んで位置を調整し、肘を脛に置くように作業をすると以外に安定する事が解った。これも役に立つ事があったとは驚きだ。
「そのまま動かずにいろ」
「わかった、協力してあげる」
が笑うと足が震えた。どちらにしろ迷惑な奴だ。
「屋敷妖精に頼まないの?」
「ああ、そうだな」
「新しい趣味なの?」
「いいや、違う」
「せっかく、直してあげようと思って来たのに」
は身体は洋服のポケットから小さな何かを取り出して机の上に放った。
見れば、投げられた衝撃で小さな裁縫道具の包みが開きかけていた。
「おまえが、縫おうと思ったのか?」
「健気でしょ?」
「……ほつれにいつ気が付いた」
「今朝。あなたが服を着てるときに見えたの」
「なぜその時に教えない」
「なんとなく。いつも完璧なセブルスの袖がほつれてるかと思うと、ちょっと楽しいじゃない」
「……。」
返答せずに遺憾を表すものの、おそらくには伝わらないだろう。
は我輩の手元を眺めていた。
針で生地を救う、糸が繊維の織られた隙間を通る摩擦を感じながら針を引く、手ごたえがあると、また針を布地に通す。
「器用ね」
「こんなもの、誰にでもできるだろう」
「手伝う隙がなくてむかつく」
「光栄だ」
の主張がばかばかしかったので苦笑すると、彼女は微笑んだ。
細かな縫い目が連なり、ほつれは無くなった。
心持ち生地が張るように目前に持ち上げれば、少々いびつではあるが、まっすぐな縫い目が完成していて気分が良い。

「できたの?」
既に飽きて腹を下に転がっていたが、身体をひねってこちらを見ようと首を持ち上げた。すると我輩の爪のささくれが彼女の脚に引っかかり、ストッキングの細い繊維が弾けた。薄く黒くの脚を包んでいた薄生地に一瞬で糸一本分の裂け目がの脚を走る。
「爪があたったようだ……すまない」
「ううん、……消耗品だし」
のんびりとは言った。
指の腹で裂け目をなぞると、滑りのいい織地の奥にかすかにの肌の感触がした。彼女が身動きするたびに裂け目は広がり、すでに腿の上まで到達して端は衣服の裾の中に隠れた。
「縫ってやろうか」
「え?」
は意味を掴めずに視線を向けただけで口を開いたが、かまわずに薄い生地をつまんで針を通す。
針の先がの肌をかすめ、彼女は息を飲んだ。信用している、と言った癖に、その様子がおかしくて息を吐いた。
どんなに糸を引き締めて縫おうとしているにも関わらず、裂け目は消えるどころか更に広がり、周囲を引き攣らせていく。
さらに縦に横に裂け広がって、酔った蜘蛛が張ったような巣のごとき文様になっていた。
構わず次へ次へと縫い進めると、がくすぐったそうに笑った。

「なおりそう?」
「さあな……」
糸の長さが尽きたので、針だけを引っ張ると穴から糸が抜けた。頼りなげに垂れている糸の端がの膝当たりに揺れていて情けない。
ざくざくと不揃いな糸の行き来の両側は大小の穴があいていての肌が覗いている。黒地に白の水玉が浮き出たようだ。

とくに穴が多く芸術的なのはふくらはぎのあたりで、その穴を指で突いてみると弾力を感じる。そのまま押すと指の腹が滑り、穴の中まで指が入った。細い糸が指に食い込んで軽い痛みを感じるが、力を込めて肌と薄布の間に掌を滑り込ませる。
がくぐもった笑い声を立てた。裂け目はさらに広がっていく。手の甲が沈んだあたりで数本の繊維が弾けたのが微かな振動で解った。
指の関節を曲げて、肌に軽く爪を立てながら手を引くと、皮膚の外側の薄皮がひきつれて白くささくれ、赤みのある爪の軌跡が残っていた。
痛みを感じたのか、が抗議を含んだ目でこちらを見ていたので





2012/2/6